南京事件・第六章(2)


第 六 章 黑 暗 笼 罩 下 的 城 市(其二)

湖滨之城’※杭州,相传是※马可波罗游览过的地方,是中国的名胜风景区之一。有八十万人口。日军一九三七年十二月二十四日上午八时占领该地。先头部队是藤井部队。实际上中国军队在杭州未设防御设施,始终没离杭州的一位外国人写信给海外的朋友,写到了当时的情况,以下几段是从这封信里摘录的:

杭州…浙江省の省都。銭塘河の河口にあり、茶や絹の集散地であった。

马可波罗…イタリアの旅行家(1254~1324)。1271年に陸路で中国に向かい、元の上都に到着し、フビライに厚遇されて17年間滞在した。この間に各地を旅行する中で、杭州も訪れた。それらの事情は『東方見聞録』に記されている。

 

章 暗 黒 に 包 ま れ た 城 市(その二)

「湖浜の城」と呼ばれた杭州は、マルコポーロ(Marco Polo)の遊覧の地として伝えられるが、中国の名勝風景の地として知られており、当時は八十万の人口を有していた。日本軍は一九三七年十二月二十四日午前八時に同地を占領した。先頭部隊は藤井部隊であったが、実際のところ中国軍は杭州に防御施設を設置していなかった。始めから終わりまで杭州に滞在していた一人の外国人が海外の友人に向けて、当時の状況を書き記した。以下はその手紙から抄録したもので、数段にわたっている。

 

十一月初,日军从杭州湾登陆,几乎没有受到任何抵抗。上海战区的中国军队受到日军的包围,并且在浦南地区因为没有防御设施所以不得不被迫撤退。直到日军开始占领南京才停止了撤退。我们今天听说沦陷了一个城市,明天知道失去了一个镇,谁都感到了日军占领杭州的可能性。

 「十一月初め、日本軍は杭州湾に上陸したが、ほとんど何の抵抗も受けなかった。上海戦区の中国軍は日本軍の包囲にあったが、浦南地区には防御施設がなかったので、撤退せざるを得なかった。だが、日本軍が南京の占領をしてからは撤退を停止した。我々は、今日、一つの都市が陥落するのを聞き、明日、一つの駐屯地がなくなるのを知って、日本軍が杭州を占領する可能性があることを誰もが感じていた。

 

十二月十九日谣言四起,据无线电台广播浦南的中国军队按预订计划完成了撤退步骤后,正与日军战斗着。但是谁也判断不出真相。直到那一天,杭州附近的铁桥被炸,省主席,市长,及其他官吏全部撤退,这才真象大白。十二月二十二日下午,又炸毁了※钱塘江大桥和现代的发电厂。还有按事前通告的,破坏了自来水厂的机械,当夜警察撤退了。十二月二十三日我们睁开眼时,杭州已经成为无防备的荒凉城市了。

钱塘江…浙江省を流れる河川で、仙霞嶺山脈を源として杭州湾に注いでいる。

 

十二月十九日、デマが乱れ飛んだ。ラジオ放送局の放送によれば、浦南の中国軍は予定した計画に従って撤退の段取りが完了し、日本軍と戦闘を続けているとのことだったが、誰もその真相を判断することができなかった。しばらく経ったある日に、杭州付近の鉄橋が爆破され、省主席、市長、およびその他の役人たちがすべて撤退するに及んで、やっとその真相が明らかになった。十二月二十二日午後、銭塘江の大鉄橋と現代的な発電所も爆破され、さらには、事前通告のあった水道工場の機械も破壊されたが、その晩に警察も撤退してしまった。十二月二十三日、我々が目を覚ました時には、杭州はすでに無防備の荒涼たる都市と化していた。

 

我们曾与中日双方讨论和平占领的计划,从现在的情况看,除发生一些难民遭掠夺的事件外,都认为这个计划已经成功。当时我们想,可能杭州将由一支新式装备,纪律严明的军队来统治,虽然是军事占领下,但也会与平常一样,圆满地进行一切。

 我々はかつて、中日双方と穏健な占領の計画について話し合っていたが、現在の状況から見ると、難民が略奪事件に遭遇した若干の事件以外は、この計画はすでにみな成功を収めていると認識していた。当時、我々は杭州は新式の装備を持つ規律正しい軍隊がやってきて統治する可能性があるから、たとえ軍事占領下にあっても、平時と同じように円満にすべてが進行するだろうと思っていた。

 

日方也知道不会遭到抵抗,于是十二月二十四日,日军不组织队伍,也不警戒,散散满满地行军。从十二月二十四日开始,日本兵仨一群,俩一伙,象散步似的没有任何的战斗准备和没有任何火力侦察,倒背着枪进入了杭州城。现在的日军步兵还是那样,已经疲劳过度,到处徘徊,寻找食物。联队长抵达了杭州后,我们去寒暄,拜托他关照。他命令杭州父老交粮食,但这两天已经抢动一空了,再交粮是非常困难的。我与联队长谈话时,又听到了日本兵枪杀两位平民的报告,其原因是因为不懂日本兵的话和写的字而逃跑,据说这个日本兵会讲中国话,喊了一声‘想逃跑吗?’接着开了枪。

 日本側も抵抗に遭わないことを知っていた。それゆえ、十二月二十四日には、日本軍は組織的な隊列も組まず、警戒もせずに、三々五々ばらばらな行軍をしてきた。こうして二十四日から日本兵は、三人ひと組か二人ひと組かで、何の戦闘準備も何の重火器もなく、小銃だけを肩にかついで偵察かたがた散歩でもするかのように杭州に入城してきたのであった。その時の日本軍の歩兵たちは、すでにかなりひどく疲弊していたようで、辺りを徘徊しては食べ物をあさっていた。連隊長が杭州に到着したので、我々は挨拶に出かけて協力をお願いした。彼は杭州の長老に食料の調達を命じたが、すでに二日前から略奪事件が発生しており、再び食料を集めることは非常に困難な状況であった。私と連隊長が話をしている時に、日本兵が二人の市民を銃殺したという報告が耳に入った。その原因は、日本兵の言葉も文字もわからなかったので、二人が逃げ出したからというものであった。だが、聞くところによれば、その日本兵は中国語を話すことができて、「逃亡しようとするのか」と一声叫んで、すぐさま発砲したというのである。

 

我们希望这是单纯的偶然事件。我感到漫长的紧张局面已经过去。我教寻着中国人和外国人的护士们,要不顾危险,为了继续救护事业挺身而出。我想现在在日方的统治下,在和平,安全的环境中,是能够工作的。我回忆起一九二六年圣诞节的情况。当时我们在某省的旧宅住着。北伐军占领了该地。我想,不仅我们,连儿女及基督教徒们都要遭难了。可是幸运的是北伐军中的一指挥官是基督徒,不安和恐惧心理渐渐地消失了。然而,这次我们对和平希望的破灭感到十二分悲痛。

 我々はこれが単なる偶発事件でしかないことを望んでいたし、長々と続いてきた緊張的する局面がすでに過去のものになったと感じていた。私は中国人や外国人の看護師たちに、危険を顧みずに引き続いて救護活動に身を捧げることを説いてきたが、現在の日本の統治下なら、平和かつ安全な環境にあるので、大いに仕事ができると思っていた。私は一九二六年のクリスマスの状況を思い起こした。当時、我々は某省の旧宅に住んでいた。北伐軍がその地区を占領したので、我々だけでなく自分の子どもたちやキリスト教徒たちもみな受難を覚悟していた。しかし、幸いなことに北伐軍の指揮官の一人がキリスト教徒であったので、不安と恐怖の気持ちが次第に消え去っていった。しかしながら、その次には我々の平和の願いに対して十二分に悲痛を感じさせる破壊行為が待っていたのである。

 

圣诞节的早晨,我们的希望还没有消失,八时,医院内举行了圣餐式,九时,为在亚洲石油公司工作的一位英国患者和另一个人祈祷,教堂也同往常一样在七时进行了祈祷。十时的礼拜也有许多人参加。可当我走出教堂回医院时,使我开始怀疑以前的希望。街道上挤满了部队。大多数都扛着枪没有秩序地走着。脸上没有一丝表情(象连续行军十天以上似的表情)。我在路口拐角处看到一个凶恶面孔的士兵,用撬扛撬开了一家商店的门。在此之前,已有其他士兵用同样的方法闯入住宅。于是全城抢动掳掠的暴行开始了。昨天,我的朋友还说过,我们设的南民收容所,也许没有用。可今天来的受惊吓的妇女和儿童已使我们招架不住了。飞机在天上盘旋了一整天,时时能听到重炮声,是日军与※钱塘江对岸的中国军队交火了。

钱塘江…浙江省を流れる川。仙霞嶺山脈に流れを発し、杭州湾に注ぐ。

 

クリスマスの朝は、我々の希望はまだ消え去っていなかった。八時に病院内で聖餐式を挙行し、九時にアジア石油株式会社で働く一人のイギリス人の患者と別の一人のために祈りを捧げた。また、教会でもいつもと同じように七時に祈祷をおこなった。十時の礼拝には、多くの人々の参加を得た。私が教会を出て病院に戻る頃になって、以前の希望に対して懐疑的になり始めてきたのである。大通りは兵士たちであふれ、大多数は銃をかつぎ秩序なく歩き回っていた。顔つきにはほんの少しの表情もなかった(十日以上の行軍を続けるとこのような表情になるものだ)。私は交差点の曲がり角の所で一人の凶悪な顔つきの兵士を見たが、彼はある商店の門を鉄梃でこじ開けようとしていた。そこの前では、すでに別の兵士が同様の方法で住宅に侵入していた。そうして全域で略奪や暴行が始まったのである。昨日、難民収容所を我々は設置したものの、無用だったかも知れないと私の友人が話していたばかりであった。だが、今日になるとおびえた女性や子どもたちがやって来て、我々だけではそれを防ぎきることができなくなった。飛行機は一日中上空を旋回しており、時々は重砲の音も聞こえてきた。それは日本軍と銭塘江対岸の中国軍が交戦していたからであった。

 

从十二月二十六日开始了正式的救济工作。圣诞之夜,听到在医院周围有重物的撞击声。使我们感到有些不安。二十六日早我和史多敦医师(Dr. Sturton)巡视了医院周围。检查各处有无需要加强防范的地方。来到东北角时,几位妇女恳求我们援助。我们告诉她们,蕙兰中学有红十字会收容所,请到哪里去,过了十分钟,她们又返回来了,气愤地说:‘红十字会不收!’听到她们这么说,我马上答到:‘我领你们去’她们不一会儿,从四面八方叫来了亲戚,孩子及各处跟上来的人,一大群。我从街上日本哨兵的面前通过,向蕙兰中学走去。门外已有百余人,在喧嚷着要进收容所。

十二月二十六日から正式な救済事業が始まった。クリスマスの夜、病院の周辺で何か重い物のぶつかる音が聞こえたので、我々は少々不安を感じた。二十六日の朝、私はスタートン医師と病院の周囲を巡視し、防御を強化する必要のある地域の有無を点検した。東北の角に行ったところ、数名の女性が我々に援助を申し出てきた。我々は彼女らに、恵蘭中学に赤十字会の収容所があるから、そこへ行きなさいと知らせたが、十分ほど経って彼女らは帰ってきて、「赤十字会では収容してくれない」と憤慨して語った。彼女たちのこうした話を聞いて、私はすぐに「私があなたたちを連れて行ってあげる」と答えると、いくらもしないうちに、彼女たちの親戚、子どもたちや各所からやってきた人々が集まってきて大きな一団になってしまった。私は市街地の歩哨たちの前を通り抜けて恵蘭中学に行った。門の外にはすでに百人あまりが集まって、収容所に入ろうとして騒ぎ立てていた。

 

我叫中国看门人开门,放我带来的四十多人和挤在门外的难民进去。看守说:‘我不能开门,已经收容不下了。’我命令他:‘真是这样的吗?不管怎么样,说什么也要把妇女放进去。你叫克兰登先生(Mr. Clayton)出来。’克兰登是该收容所负责管理的美国教士。他出来后告诉我,校内已收容难民八百人左右,预定可容纳一千人,所以不妨让这批难民进去。中国职员提醒开门要小心,如果门一开,外面的难民就会象雪崩般地涌进来。我要求收容所只收容妇女,儿童,先放进门外的妇女和孩子们,男人们让开路,注意不要站在前面。他们十分理解我的要求。听了我的话,约九十名妇女儿童进了收容所,这是我第一次的救济工作。之后的几天里,每天都能目睹或耳闻两,三起各种事件。再就是把因恐怖而战栗的妇女儿童送到收容所。一次十人至二十人。这些妇女和儿童大部分是聚集在医院门前的。从十二月二十四日开始,我们关上了外面的大门,由外国人交替看守,最初的两天是我值班,哈多医师(Dr. Phyllis Haddow)和加尼特女士(Miss Garnett)协助。加尼特女士从那以后成了开门的负责人,从早到晚都在那,整整两周这个大门禁止通行。二十六日上午九时,我看到一群难民象潮水一样地向医院涌来。我马上关了大门,大多数男人都离开了,只有女人们想要聚集在患者用的礼堂内。我又将她们送到难民收容所去。当时的情形是非常凄惨的。可怜的母亲带着几个孩子,有的抱着,有的领着,有的孩子拉着妈妈的衣角,蹒跚地移动脚步。姑娘们手里拎着装有衣物和贴身用品的大包小裹,一步一步缓缓地迈着脚步。走几分钟就要休息。为了不在途中失散,慢悠悠地走在大路上。路上遇到很多日本兵。日本兵不一定麻烦或侵犯她们。但她们只要看着日本兵的面目,就害怕得发抖。

 私が中国人の看守に門を開けさせ、連れてきた四十数人と門の外で騒いでいた難民を入れようとしたところ、看守は、「私には門が開けられない。すでに収容しきれないのです」と言った。そこで私は、「ほんとにそうか。たとえそうであっても、女性たちは中に入れなければいけないのだ。クレイトンさんを呼んで来なさい」と彼に命じた。クレイトン氏はこの収容所を管理するアメリカ人の宣教師であった。彼は私の所にやって来て、「校内ですでに八百人程度の難民を収容しているが、一千人の受け入れが可能なので、そう予定しているから、この難民たちを入れても問題ない」と語った。中国の職員は、「門の外の難民たちが雪崩のように一斉に入り込むだろうから、門を開ける場合は注意を払わなければならない」と指摘した。私は、「収容所には女性と子どもだけを収容するので、まず門外の婦女子が入り、男たちは道を空けて、前に立たないように注意せよ」と求めた。彼らは私の求めを十分に理解して話を聞いてくれた。九十人ほどの女性と子どもたちが収容所に入った。これが私の最初の救済事業であった。その後の数日間、私は毎日二、三度は各種の事件を直接に目撃したり聞いたりした。また、恐怖におののく婦女子を収容所に送り込むこともした。それは一回に十人から二十人に及んだ。これらの婦女子の大部分は病院の門前で集めた人たちであった。十二月二十四日から、我々は外の大門を閉めて外国人の看守が交替で見張りをすることを開始した。最初の二日間は私の当番であったが、ハドウ医師とガーネット女史が協力してくれた。その後、ガーネット女史は門の開閉の責任者になり、朝から晩までちょうど二週間この大門の通行を禁止したのであった。二十六日午前九時、私は一群の難民が潮のように病院に押しかけてくるのを見た。私はすぐに大門を閉めて、大多数の男たちを帰らせて、女たちだけを患者用の講堂の中に集めて、難民収容所に連れて行った。当時の状況は非常に凄惨なもので、哀れな母親は何人かの子どもをあるいは抱き、あるいは手を引き、あるいは着物の端につかまらせ、よろよろとした足取りで移動していった。若い娘たちは、衣服や身の回りの品物を入れた大小の袋を手に持って、緩慢に一歩一歩歩いては、何分か歩くと休憩していた。彼女たちは途中ではぐれないようにゆっくり歩いては、道路上で多くの日本兵に遭遇するのであった。日本兵とても必ずしも彼女たちに迷惑をかけたり犯そうと思っているわけではないのだろうが、彼女たちは日本兵の顔を見ただけでも恐れおののくのであった。

 

收容所门外要求保护的妇女一天比一天多。两所最大的收容所的难民从一千人猛增到一千五百人,收容所内混乱的情况到了使人难以想像的程度。比如,弘道女子学校收容所拥挤的状况,到了没有翻身余地的程度。这样,一批批的母亲带着孩子一个接一个地挤进来。三层楼的宿舍,屋里,走廊,通道,阳台,楼梯,都挤得没有一丝空隙,水泥地的大操场也都挤满了,她们整天坐在那里,在那里吃,在那里睡。看了这些,谁都会反对战争,反对战争给予人类的痛苦。然而收容所内的人们还是幸运的。他们吃什么?每天只能吃一餐。这还要经过非常大的努力。她们的卫生状况怎样?靠中国办事员的热心努力和中国妇女的性情温顺是能忍耐下去的。我们想像过四天会缓解的。但至今她们已经这样生活了三十五天,妇女还不能安全地回家。

収容所の門の外は保護を求める女性たちが一日また一日と増えてきた。二か所の最大級の収容所の難民は千人から千五百人に激増し、その混乱の状況は想像を絶するほどひどいものであった。一例を挙げれば、弘道女学校の収容所の混雑の状況は、寝返りを打つことができないほどに達したが、さらに、群れを成した母親たちが子どもたちを連れて次々に入って来たのであった。三階建ての宿舎は、部屋の中、渡り廊下、通路、バルコニー、階段にまで溢れ出て、まったく立錐の余地もなかった。セメントが敷かれた大運動場もすべて人で埋め尽くされ、彼女たちは一日中そこにすわって、そこでものを食べ、そこで寝ていたのである。この光景を見た人は誰でも、戦争に反対し、戦争が人類に与える苦しみによって戦争に反対するだろう。だが、収容所内の人々はそれでも幸運であった。彼らに食事が取れたかといえば、毎日一食は食べられるようにと、我々は非常に多きな努力をしたのであった。また、衛生状態はどうだったかといえば、中国人の事務員の熱心な努力と、中国女性の従順でおとなしく、忍耐強い性格によって何とか耐えることができた。我々は四日も経てば、状態が緩和されると思っていたが、彼女たちはこれまですでに三十五日間もこのような生活を強いられていた。しかも、安全に家に帰ることはできなかったのである。

 

我们决定分担日常工作,史多敦医师(Dr. Sturton)对医院里的事务工作一概不管,只负责承担对外部的难民救济事业。医院里的汽车,救护车的使用由他管理。他处理了以下事情。十二月二十七日上午九时,城隍山女子修道院请求广慈医院是否可以帮助解决日本兵闯入院内,威胁妇女问题。正好这时来了一位日本军官,史多敦医师和他乘救护车赶到现场,赶走了日本兵,把受害的妇女送到二英里外的仁爱医院。还有,下午一时四十五分,从天主教堂打来要求救助的电话(杭州市电话已经不通了,但广慈医院,天主教堂,之江大学以及松木场广慈分院的电话还是通着的。广慈医院是中心连络站),史多敦医师再一次与田中军医一同出发。事件是一个烂醉的日本兵殴打德迈斯主教(Roman Bishop Deymien)还用刺刀威胁。那士兵看到田中从车上下来,就迅速地逃开了。

 我々は日常の仕事の分担を決め、スタートン医師は病院内の事務的な仕事には一切関わらず、もっぱら対外的な難民救済事業を担当することになった。病院の自動車や救急車の使用も彼が管理することになった。また、彼は次のような事件も処理した。十二月二十七日午前九時、城隍山女子修道院から、日本兵が修道院に侵入して女性を脅迫している問題が発生したので、広慈病院でこれを解決することが可能かどうか、という要請があった。ちょうどその時、折よく一人の日本人将校が病院に来ていたので、スタートン医師とその将校が救急車に乗って現場に駆けつけて日本兵を追い出し、被害を受けていた女性を二マイル離れた仁愛病院に送り届けた。それから、午後一時四十五分には、カトリック教会から救助要請の電話があった(杭州市の電話はすでに不通であったが、広慈病院、カトリック教会、之江大学および松木場広慈分院の電話はつながっていた。広慈病院が中心連絡場所であった)。そこで、スタートン医師は、再び田中軍医と一緒に出掛けていった。事件は一人の泥酔した日本兵がデイミエン司教を殴打して銃剣で威嚇したというものだったが、その兵士は田中軍医が車から降りるのを見てすばやく逃げ出してしまった。

  

这里必须用救护车运燃料,往各收容所送米,再有送我们去各收容所。这样的工作必须由我们当中的一个人随时出外交涉。这项工作由史多敦医师承担,赫陶医师(Dr. Haddow)忙于医院内的工作。卡蒂斯夫人(Mrs. Curtis)忙于照顾从收容所转来的产科的许多婴儿。加纳托女士(Miss Garnett)看守大门没有一点空隙。就连护士班的学生也不例外地边学习,边做治疗和看护伤兵,难民,婴儿等等工作。每天都如此。

 

ここでは救急車を使うのにも、各収容所に米を送ったり、我々を各収容所に送ったりするのにも燃料が必要だった。このような仕事をするためには、我々の中の誰か一人がその時々に外に出て仕事をしなければならなかったが、スタートン医師が引き受けてその仕事に当たった。ハドウ医師は病院内の仕事に忙しく、カーティス夫人は収容所から産科に送られて来た多くの嬰児の世話で忙しかった。ガーネット女史は大門の監視で少しの暇もなかった。看護師班の学生たちは例外なく学習に励んでいたが、傷兵や難民、嬰児たちの治療と看護は、毎日平常通りに行われていた。

 

下面叙述一场火灾,首先说明这所医院的地点。我们医院位于城中心。南面的公路相当宽,东,西,北三面都被旧式街道包围成一个小角。这个地区的南侧排列着很多的旧式建筑,其它三面大部分都是用木头和泥建造的要到塌的房屋。所以对于我们来说火灾是最可怕的,你们也是能预想到的。十二月二十六日,我刮好胡子,向西方望去,一股浓烟从我的寝室和史多敦的家之间升起。忽儿,一股浓烟变成了火焰。医院的大钟响了,我急忙穿上外衣走出来,医院的佣人们向医院的西侧跑去,我这才意识到:火灾发生在医院外。来到街上,看到火灾发生在正西方向,大火被二十英尺的墙挡住了。有人要求搬出西边病房的患者。我告诉他们没必要这样做。我再次登上史多敦家北边的外国护士宿舍的三楼,观察火势。只要不变风向,火就不能越过两侧的墙壁而蔓延,这个外国护士宿舍就没有危险。万一变成顺风向,就危险了,恐怕我们医院也会被烧。多亏灭火及时,使我们能够安心地进早餐。但八时未能祈祷。

 次に火災に関して述べることにする。まずこの病院の場所のことから説明すると、我々の病院は城内の中心部にあり、南側はかなり幅が広い道路で、東、西、北の三面がすべて旧式の街道に囲まれた角の小さな一画にあった。この地区の南側には多くの旧式建築が並んでおり、その他の三面も大部分は木材と泥土で作られた倒壊寸前の建物ばかりであった。それゆえ、我々にとって火災が最も恐ろしいものであることは、あなた方にも予想がつくものであろう。十二月二十六日、私がひげを剃って西の方を眺めていると、一筋の黒煙が私の寝室とスタートン家の間から立ちのぼり、たちまちのうちに黒煙は火炎に変わった。病院の大きな釣り鐘が鳴らされ、私は急いでコートをはおって外に出た。病院の使用人たちも病院の西側に走って逃げた。私はそこで初めて火災が病院の外で発生していることを知った。道路に出てみると、火災の発生箇所は病院の真西の方向であったが、大火は二十フィートほどの塀で遮られていた。西側の病室の患者たちを移動させようとしている人たちがいたが、私はその人たちに、患者を移動させる必要がないことを告げた。私が再びスタートン家の北側の外国人看護師の宿舎の三階に上がって火の勢いを見た。風向きが変わって火が両側の塀を乗り越えて延焼することさえなければ、こちらの外国人看護師の宿舎に危険はなかった。万一、風向きが変わってこちらに向くようなことがあれば、危険な状態になるので、我々は病院への類焼を恐れていた。幸いなことに消火されたので、我々は安心して朝食をとることができた。だが、八時のお祈りはできなかった。

 

二十六日以后,城内时常起大火,都离得比较远。有两次我们到外面打听火灾地点,有一次值班护士叫醒了我,她错以为是近处的火灾。伍特女士(Miss Woods)的佣人也说那晚上也起身两次到草地上去探望。

二十六日以後もしばしば城内で大火が起こったが、みな比較的遠い所であった。我々は二回ほど外に出て火災地点の問い合わせをした。宿直の看護師が火災は近くだと勘違いをして私をたたき起こしこともあった。ウッズ女史の使用人などは、一晩に二回も起きて草地の様子を見に行ったそうだ。

 

每天早晨九时,我去伍特女士(Miss Woods)处视察收容所,有时去访问托伊洛先生(Mr. Taylor)处。在医院幸运的是平常有新鲜牛奶,当牛奶送不到时,我就替送牛奶。我们医院有秩序,生活也快乐。还有幼儿园,小学,中学,妇女圣经俱乐部等。我们医院能叫做混乱世界中的‘天堂’了。伍特女士与收容所附近的日本兵很熟悉。也没有碰到麻烦事。并得到了若干的帮助。元旦时,在教会和伍特女士家的墙上写了‘敬爱的主教,恭贺新年’的大字。主教在教会的布告板上也写上了贺词。这是不愉快生活中的愉快。可是其它方面全然不同,伍特女士也曾就过被日本兵威胁的妇女。日军占领杭州以来,除对全杭州进行掠夺外(据说,没有一间住宅,店铺不曾遭过日军掠夺的。许多军马饲养在住宅或店铺里。美丽的杭州成为被罪恶被破坏了的城市)并对妇女采取了种种暴行。我们医院进来了许多受害者。一人被日本兵追赶从二楼窗子跳出脊骨摔断。另一人大腿骨折。掠夺,伤害,屠杀,强奸,放火有增无减。全杭州成了恐怖的城市。仅有外国人的家产和收容所内是安全的。

 毎朝九時、私はウッズ女史の所へ行って収容所を視察したり、時にはテイラー氏の所を訪問した。病院には幸いなことに 普段から新鮮な牛乳があったが、牛乳の配達人が来なかった時は私が替わって収容所に届けたりした。我々の病院には秩序もあり、生活の楽しみもあった。さらには、幼稚園、小学校、中学校、女子キリスト教クラブなどもあった。我々の病院は、混乱世界の中の「天国」とも呼べるものだった。ウッズ女史は収容所近くの日本兵と懇意にしていたので、衝突することも煩わしいことにも出遇わなかった。むしろ、若干の援助を受けたほどであった。元旦には、教会とウッズ女史の家の間の塀には、「敬愛する司教さま、新年おめでとうございます」という大書があった。司教も教会の掲示板に祝辞を書いた。これは不愉快な生活の中の愉快な出来事であった。しかし、その他の面ではまったく異なっており、ウッズ女史は日本兵に威嚇された女性を救わなければならないこともあった。日本軍が杭州を占領してからは、全杭州で略奪を行った以外にも(聞くところによれば、一軒の住宅でも店舗でも、日本軍の略奪に遭わなかったところはなかった。多くの軍馬が住宅や店舗の中で飼われ、美しかった杭州は悪行によって破壊された都市になってしまった)。日本軍が各方面で婦女をかどわかしたり、様々な暴行を加えたりしていたのであった。我々の病院にも被害を受けた者たちが多く来ていた。一人は日本兵に追いかけられて、二階の窓から飛び降りて脊椎を骨折し、別の一人は大腿部を骨折した。略奪、傷害、虐殺、強姦、放火などは増えこそすれ減ることはなかった。杭州のすべてが恐怖の地域となってしまったが、

わずかに外国人の財産と収容所の中だけはまだ安全であった。

 

日本当局特别是宪兵,确实为保护外国人尽了力。但杭州的中国人不受保护,在日本兵的威胁下呻吟着。我们常常向日本当局抗议。他们总是说‘不能相信’不予重视。

 日本軍当局、とくに憲兵は確かに外国人の保護に尽力した。だが、杭州の中国人は保護を受けられず、日本兵の威嚇のもとで苦しみにあえいでいた。我々はしばしば日本軍当局に対して抗議をしたが、彼らは「信じられない」と言ってこれを重視しなかった。

 

日本宪兵很好,可惜人数太少。有一天傍晚,我正喝着茶休息,这时医院的事务员老秦跑进来,请求我去制止两个日本兵在他家掠夺。我们一起急匆匆来到医院拐角时,一个宪兵在自行车旁正传达命令。老秦跑到他面前,用笔写,要求帮助。我们一起来到现场,捉住了手持军刀的士兵,记下了姓名,把他押送到宪兵司令部。

 日本の憲兵は善良であったが、惜しいことに人数が少なかった。ある日の夕方、私がお茶を飲んで休憩していると、病院の事務員の秦さんが飛び込んできて、二人の日本兵が自分の家にいて略奪を働いているから制止してくれと私に要請した。私が急いで一緒に出掛けて病院の曲がり角に来たところ、一人の憲兵が自転車の傍に立って、ちょうど何かの命令を下している時だった。秦さんは彼の前に走り寄って、筆談で助けを求めた。我々は彼と一緒に現場に出掛けて、軍刀を手にした兵士を捉えて、その姓名を記した上で、彼を憲兵司令部に連行していった。

  

我们想象如把这些不幸事件向日军当局提出,促使其注意,他们或许会说,‘你们请去看看上海,南京,嘉兴的状况吧!’

 我々がこれらの不幸な事件を日本軍当局に申し出てその注意を促せば、多分彼らは、「上海や南京、嘉興などに行って、その様子を見て来給え」などと言うだろうと想像している。

 

在这场战争中,我们教会的工作究竟取得了什么样的成绩,有什么意义是不能断言的。属于杭州地区的三个教区如今被两个军队分开。就杭州这种状态来说,比其它地方的情况更为恐惧。钱塘江对岸的三个教区日军还没进入。我们祈祷但愿平安无事。可是对日军的恐怖症在到处蔓延着。日军占领杭州之前,已经传说了日军的各种各样的暴行,我们答复中国朋友们,不足以相信。我们想起来很痛心,现在不仅是承认传说的问题了,而且事实的恐怖程度比传说的要严重的多。

 この戦争において、我々の教会の事業が結果としてどのような成果を収め、どんな意義を持ったかについては断言できない。杭州地区に属する三つの教区は今や二つの軍隊によって分断されている。杭州のこの状態をその他の地域の状況とを比べて説明するのはまことに恐ろしいくらいだ。銭塘江の対岸の三つの教区には日本軍はまだ入っていない。我々はその平安無事を願ってただ祈るだけである。しかし、日本軍に対する恐怖症は至る所に蔓延している。日本軍が杭州を占領する前に、すでに日本軍の様々な暴行事件を聞いていたが、我々は中国の友人たちに、それは信ずるに足りないと伝えていた。ところが、現在ではそう伝えたことの問題を認めるばかりでなく、事実としての恐怖の程度の方が伝えた内容よりも深刻で大なるものと思っているのである。

 

占领杭州的日军本来圆满地占领无设防的城市后,应该利用这个极好的机会证实是军纪严格的军队。但他们自己放弃了。杭州是无设防的,城里没有一兵一卒,日方事前完全知道。但是日军当局并未要求士兵们去鼓励居民恢复日常生活。日军占领杭州以来,已经五周了,到处可见日军兵进行公然的掠夺,妇女们躲到哪也不安全。

 杭州を占領した日本軍は、本来、無防備な都市を円満に支配するなどして、軍紀が厳格な軍隊であることを実証するのにこれが絶好の機会だとして利用すべきであったのに、自らそれを放棄してしまった。杭州が無防備で、城内には一兵卒もいないことを、事前に日本軍は完全に掌握していた。だが、日本軍当局は兵士たちに対して、居住民を激励して日常生活を回復させるようには対処しなかった。日本軍が杭州を占領してからすでに五週間が経過したが、至る所で日本兵が公然と略奪する姿が見受けられたので、女性たちが身を隠せるような安全な場所はどこにもなかった。

  

就外国人来说,我们没感到有大的不满。只有三个外国人受到侮辱,而且恰巧代表三个国籍。一位是法国的塔姆尔主教(Bishop Deymien),一位是美国的麦克梅伦(McMullen)博士,另一位是中国海关的退职职员英国人莫尔(George Moule)。而且,情形都不十分严重,除了年龄七十多岁的老人莫尔当时可能遭到意外的不幸之外,其它没有什么担心的。我们的家常常有日本兵闯入,用步枪和手枪威胁我们。其它的,例如尽管挂了外国国旗,领事馆布告,教会布告或日本宪兵队司令部的布告,也不能阻止日本兵侵入掠夺。当然关于这方面日本宪兵队给予了我们尽力的保护。但是终究限制不住日本兵的自由出入。于是家里的物品逐渐失踪。

一九三八年一月二十七日 于杭州”

 

外国人の被害に関して言えば、我々はあまり大きな不満は感じていなかった。わずかに三人の外国人が侮辱を受けただけであり、しかもあいにくなことに、別々の三か国の代表たちであった。一人は、フランスのデイミエン司教で、もう一人はアメリカのマクミューレン博士で、残りの一人は中国税関の退職職員で、イギリスのムール氏であった。しかも、七十歳を超えた老人のムール氏が意外な不幸に遭遇する恐れがあった以外は、事件としてはみな心配するようなものではなかった。我々の家にはしばしば日本兵が侵入してきて、拳銃や小銃で我々を威嚇することなどもあった。その他の例を挙げると、掲揚している外国国旗や、領事館の布告、教会の布告、あるいは日本の憲兵隊司令部の布告などによっては、日本兵の侵入と略奪を防ぐことができなかったというぐらいのことである。もちろんこの方面に関しても、日本の憲兵隊は我々の保護に尽力してくれたのだが、最後には勝手に入ってくる日本兵を取り締まることもしなくなってしまった。そうして家の中の物品が次第になくなっていったのである。

一九三八年一月二十七日 杭州において

 

具有‘小上海’别称的无锡是工业中心。平时有人口约九十万。在上海西方相距一百零五英里处。有几条公路及京沪铁路相通。下面叙述的是无锡的惨状,是由一个美国医生所写的。原文刊载在一九三八年三月十九日的上海评论周刊的《中国的毁灭》增刊上。

「小上海」という別名を持つ無錫は、工業が中心で、平時の人口は約九十万であった。上海の西方にあって隔てるところ百五マイルであった。何筋かの道路と京滬鉄道とが両方の都市をつないでいる。次に述べる無錫の惨状は、あるアメリカ人医師が書いたものである。原文は一九三八年三月十九日の「週刊上海評論」の増刊号に≪中国の破壊≫として掲載されている。

   

据该刊的记者说:关于无锡最后几天的状况,也就是说疯狂的日军占领该地以前的状况,没有比这一位叙述得更为具体了。一九三七年十月十四日,他用汽车载满了衣服,食物及药品,从上海去无锡。他想用这些物品可以缓解伤兵难民的痛苦。旅程是相当危险的。两天前,三辆挂着英国国旗的汽车,在公路上遭到日本飞机的机枪扫射。

 同刊の記者は次のように述べている。無錫方面最後の数日間の状況、すなわち狂気に満ちた日本軍がその地を占領する前の状況について、これほど具体的に叙述したものはない。一九三七年十月十四日、彼は自動車に衣服や食物や薬品などを満載して上海から無錫に赴いた。彼はこれらの品物で傷兵難民の痛みや苦しみを和らげようと思ったのである。旅行はかなり危険であった。二日前に、英国の国旗を掲げた三台の車両が道路上で日本軍の飛行機の機銃掃射を受けたばかりであった。

 

他描写了无锡附近数英里的情况是日军粗暴行为的不可饶恕的罪状。袭击沿公路的运河上的运煤船,射击田里可怜的农民,飞机追赶着逃跑的农民,用机关枪扫射。

 彼は無錫付近数マイルの状況、すなわち日本軍の暴行という許すべからざる行為について述べた。それは道路沿いの運河を行く石炭船を爆撃し、田畑にいる哀れな農民たちを銃撃し、飛行機は逃げ回る農民たちに対して機関銃掃射を行ったというものだった。

 

他在日记里叙述了怎样地冒着遭轰炸的生命危险,天天努力地看护病人,伤员的艰苦经历。下面是他的日记。

 

彼は自分が爆撃によるどんな生命の危険を冒してでも、日々努力して病人を看護し、傷兵の苦しみの体験を自らの日記に記した。以下はその日記である。

 

十月十六日。今天送来的伤员,内脏被机枪子弹穿透,流血过多,没有什么希望了。他看见日本飞机时,躲入附近的桑园,飞机紧紧追随,开枪扫射。除了他,还有三人死亡,四人负伤。附近数英里,根本没有中国军队。为什么日本飞机袭击这些可怜无辜的平民呢?

 

「十月十六日、今日送られて来た負傷者は、機関銃弾が内蔵を貫通して、出血がおびただしく、全く生存の望みがなかった。彼は日本の飛行機を見て付近の桑畑に逃げ込んだが、飛行機が執拗に後を追って機銃掃射を加えたというのである。彼のほかにも三人が死亡し、四人が負傷した。付近の数マイルに、中国軍は全くいなかったのである。何ゆえに日本軍の飛行機は、これらの憐れむべき罪もない人々を襲撃したのだろうか?

 

十月十七日。今天早晨我带着职员巡查了病房。病房里住满了伤兵和难民。其中有手被切断的,有脚部骨折的,还有受重伤痛苦地呻吟着的伤兵。他们的死亡只是时间问题了。当然,这情景是凄惨的,恐怖的。另有三个女人,都已锯去了一条腿,他们是于十月六日日本飞机轰炸无锡车站时受伤的。医院内挖了三个大防空壕,作为附近居民的避难的地方。最近的轰炸破坏了发电厂的机械,白天不能使用X光。只有晚上从临时发电厂送来电。夜间只要没有警报,我们就可以收听到上海方面广播的消息。

 十月十七日。今日の午前中は病院の職員を連れて病室を巡回した。病室は傷兵と難民であふれていた。その中には、腕を切断された者、足を骨折した者、それに加えて、重傷を負って苦しみにうめいている傷兵などもいた。彼らが死を迎えるのは時間の問題であった。当然のことながら、この情景は痛ましく惨たらしいもので、恐怖に充ち満ちていた。別の三人の女性は、みな大腿部をえぐり取られていたが、十月六日に日本軍の飛行機が無錫の停車場を爆撃した際に負傷したものだった。病院の構内には三つの大防空壕を掘って、付近の住民の避難場所としていた。最近の爆撃で発電所の機械が壊れたので、昼間はレントゲンの使用ができなくなった。夜間だは臨時の発電所から送電があったので、警報さえなければ、我々は夜間に上海方面のニュースをラジオで聞くことができた。

 

十月十八日。一早,我们查病房时,警报响了,我们知道是日本飞机来到了无锡,我们心理都想跑入防空壕,但是却都装作无所谓继续检查。一会儿听到了很刺耳的飞机声,接着是使人惊恐的炸弹爆炸声。我不知道为什么要痛苦地死守着这所美国医院,我和两位同事在继续工作着。说实在的,我个人没有任何兴趣。只是我们西洋人绝不能为了自己的安全,放弃医院,扔下痛苦的病人走开。当爆炸声刺痛我的耳膜时,推测到日本大概轰炸了车站。果然如此,因为全然无有防空设备,日本飞机投下四枚炸弹,安然离去未受到地面上的任何攻击。在收拾残局时,一名铁路的守备士兵被送到医院,头部中弹片已告绝望。炸死炸伤的尚有数人。

 

十月十八日。早朝に我々が病室を巡回していると、警報が鳴ったので、日本軍の飛行機が無錫にやって来たことがわかった。我々もみな心の中では防空壕に走り込みたい気持ちだったが、どちらでもよいというふりをして巡回を続けた。少しすると耳をつんざくような飛行機の爆音が聞こえ、引き続いて人を恐怖に陥れるような爆発音が聞こえた。私には何のためにこのアメリカの病院を苦しみながら死守しなければならないかがわからなかったが、それでも私は同僚の二人と同じ職場で継続して仕事を行っていた。正直に言えば、私個人としてはここに何の興味もなかった。ただ我々西洋人は、自分の安全のために病院を放棄したり、苦しんでいる病人を見捨てることは、断じておこなってはいけないのだ。耳をつんざくような爆発音がしたその時は、日本軍の爆撃はたぶん停留所のあたりだろうと推測したが、はたしてその通りだった。ここには全く防空設備がなかったので、日本軍の飛行機は四発の爆弾を投下したが、地上からは何らの反撃も受けずやすやすと飛び去ってしまった。事態が収まった頃に、一名の鉄道守備の兵士が病院に送られて来たが、頭部に砲弾の破片があたって絶望的であった。爆死したり爆傷したりした者は数人どころではなかった。

 

十月二十五日。日本飞机没来城里轰炸,我相信日本飞机不会轰炸城里了。所以,如果给我百万美元,我也不想离开这里。只要我在这,就能起到一定作用。医院屋顶上,周围墙上挂着美国国旗和清楚地写着中国文学。

 十月二十五日。日本軍の飛行機は城内に爆撃を加えていなかったので、私は日本軍が城内を爆撃するようなことはないものと信じていた。だから、もし誰かが百万ドルくれると言っても、私はここを去る気持ちはなかった。私でもここに残っていれば、少しでも何らかの仕事ができると思っていたからだ。病院の屋上には米国国旗を掲げられ、周囲の塀にはアメリカ軍の病院であることが漢字できれいに書かれていた。

 

十月三十日。没有空袭,但日本飞机进入这个地区,几次响起了警报。仍无电,也没有恢复的希望。

 十月三十日。空襲はなかったが、日本軍の飛行機がこの地区に侵入してきたので、数回にわたって警報が鳴らされた。相変わらず電気はつかず復旧のめども立っていなかった。

 

十月三十一日。今天空袭时,炸毁了一家旅馆,在附近站岗的警卫士兵,耳朵被震聋了。听到爆炸声,我忘掉一切跑去抢救。钟楼被炸毁,道路成了火海,车站也中了二枚炸弹,货栈也中弹起火,昨天通过铁路时,看到落在华盛顿饭店前的一枚炸弹。

 十月三十一日。今日は空襲があり、一つの旅館が爆破され、付近で見張りに立っていた警護兵が耳をつんざくような爆発音を聞いて、すべての緊急措置も忘れて飛び出してきた。鐘楼も爆破され、道路は火の海と化し、停車場にも二発の爆弾が命中し、倉庫にも当たって火災が発生した。昨日、鉄道の線路を通った時にも、ワシントンホテルの前に一発の爆弾が落とされたのを見た。

 

十一月一日。当地的报纸报道完成了配电的修理。可是上空仍然盘旋着日本飞机。我希望能够结束战争。苏州语言学校教师来到了无锡,邀请我帮助学校复课。

 十一月一日。当地の新聞は配電の修理が完成したと報じたが、上空には依然として日本軍の飛行機が旋回しているので、私は戦争が早く終結してほしいと望んだ。蘇州の語学学校の教師が無錫にやって来て、授業の再開を援助してくれるようにと私に要望した。

 

十一月三日。今早,日本海军飞机两架轰炸了二十分钟,击中了运送空军的列车。我替同事为一个弹片炸进手指的士兵手术时,也有一架日本飞机来袭击,幸运的是没有投下炸弹,手术顺利地进行着,效果良好。同时我们听说了,无锡与上海间的电话被切断。日军强行渡过苏州河,中国军队正在陆续撤退。

 十一月三日。今朝、日本海軍の飛行機二機が二十分ほど、空軍を輸送する列車を爆撃した。私が同僚に替わって砲弾の破片で負傷した兵士の手指の手術をおこなっていた時も、一機の日本軍機がやって来て襲撃したが、幸運にも爆弾を投下しなかったので、手術は順調に進み、結果も良好であった。その頃、無錫と上海の間は電話線が切断されていたことや、日本軍が蘇州河を強行渡河し、中国軍が引き続き撤退中であることなどを耳にした。

 

十一月四日。早上去礼拜时,日本飞机来空袭,炸弹爆炸地点与教堂仅隔一道城墙。从距离来说,至今也是离我最近的一次爆炸。飞机的声音比平时声响更大,它飞的很低。我们大为惊骇,也许是最新式的轰炸机,列车上炸死炸伤了许多人。

 十一月四日。早朝礼拝をおこなっている時に、日本軍の飛行機が来襲して、爆弾を炸裂させたが、その場所は礼拝堂からわずかに道一つを隔てた城壁で、距離で言えば今までで最も病院に近い所の最初の爆発であった。飛行機の爆音が平時の時よりもかなり大きく、低空飛行で列車の上を爆撃したので、多くの使者や負傷者が出た。我々は最新式の爆撃機かもしれないと大いに恐れおののいたのだった。

 

十一月五日。今天终于有电了。这是三个星期以来的第一次。我的接收机的真空管坏了,大家都很担心。修理好后,新闻节目已播完,正在播送拳击比赛的实况。

 十一月五日。今日は一日中電気がついた。これはこの三週間で初めてのことだった。接収したラジオの真空管を私が壊してしまったためで、みんなは大いに心配していた。修理はうまくいったのだが、ニュースはすでに終わっており、ボクシングの試合の実況が放送されていた。

 

十一月十日。开始轰炸以来,今天是最凶恶的一天。投下的炸弹至少有一百六十枚。几处发生了火灾,损害惨重。被炸地区是※惠山,工业区及水西门外一带。轰炸是半夜十一时半开始的。轰炸非常猛烈。我从床上起来,从窗子探出头,见到了信号弹,一个接一个地落下来把全城都照亮了。也许是认为没有值得轰炸的目标,不一会儿,日本飞机就飞走了。据我所知,今天日本飞机轰炸无锡时,惠山的军用医院遭轰炸,有很多士兵伤亡。工厂地区一般居民伤亡更不计其数。被送来的伤员,没有身体完整的,悲惨得目不忍睹。其中一人左耳粉碎;腕部的肉被炸掉;左腿有深深的创痕;左脚被炸飞了一半;生殖器被炸烂;身上多处受伤,必须手术。上帝呀!这样的轰炸继续下去,我们怎么能够收容得了这么多的伤员呀!

惠山…無錫市の古い町並みを残す町で真ん中を水路が通る。恵山老街と呼ばれる。

 

十一月十日。爆撃が開始されて以来、今日が最悪の一日だった。投下された爆弾は、少なくとも百六十発以上に及び、数か所で火災が発生し、損害は甚大なものであった。爆撃された地域は、恵山、工業地区および水西門外の一帯で、爆撃は夜半の十一時半頃まで続いた。爆撃があまりにも猛烈だったので、ベッドから起き上がって、窓から頭を差し出したところ、照明弾が一つまた一つと落下して全市を明るく照らしているのが見えた。爆撃の目標として価値あるものがないと思ったのかも知れないが、ほどなく日本軍の飛行機は飛び去っていった。聞くところによれば、今日の日本軍飛行機の無錫爆撃で、恵山の軍用病院では多くの兵士たちが死傷したほか、工場地区の一般市民の死傷はその数をかぞえられないほどだったそうだ。病院に運ばれてきた負傷者は、一人として五体が満足であった者はなく、その悲惨さは見るに忍びないものだった。その中の一人は、左耳がなくなり、腕の肉が削ぎ落とされ、左足の半分は吹き飛がされ、生殖器がなくなっているという状態で、体に無数の傷を負っていて、手術が必須であった。神よ、このような爆撃が続くならば、我々はどうやればこれほど多くの負傷者を収容することができるのだろうか。

 

十一月十一日。今早日本轰炸机约进行了一个小时的轰炸,我正在手术室里。因洗衣机的噪音大,使我没注意到爆炸声,下午又来轰炸。落弹的地点仅离医院数百码。因此房屋剧烈震动,室内的器具也都落到地上。我下意识地点着了香烟。我从手术室回到病房时,若干弹片落下来,有一两名医生被吓得惊慌失措,但护士们冷静。著名的师范学校遭到了轰炸。过了没多久,送来了四名伤员,一人四肢摇晃,均须截去。我和另一位医生两个人配合截断了一人的小腿,从大腿部抽出弹片。这个伤员屁股上也负了伤,弹片粉碎了尾骨,伤到内脏。我们先休息一会了,吃了晚饭,又接着进行通宵的手术。

我们还听到了今天最悲惨的事件。十月二十八日的轰炸,击中了这附近的防空壕,其中的四十人一个不剩都被炸死。事实是这样的;一个孩子在防空壕里吓得大哭,谁也无法制止。有人怕引来飞机,要求母亲把孩子领出去。母亲不肯。父亲把孩子带出去,在树林中躲避。不一会儿炸弹命中了这简易的防空壕,埋葬了四十人的生命。

 十一月十一日。今朝日本の爆撃機がほぼ一時間にわたって爆撃をおこなった。私は手術室にいたが、洗濯機の音が大きかったので、爆撃音が私の注意を引くことはなかった。午後にまた爆撃にやって来た。爆撃地点は病院からわずかに数百ヤード離れているだけだったので、建物が激しく揺れて、室内の器具もみな床に落下した。私は無意識に煙草に火をつけていた。私が手術室から病室に戻った時、若干の砲弾の破片が落下してきた。医師の一、二名がうろたえて逃げ出したが、看護師たちは冷静であった。有名な師範学校が爆撃に遭って、まもなく四名の負傷者が病院に送られて来たが、一人は四肢がぶらぶらの状態で、それぞれその一部を切断しなければならなかった。私ともう一人の医師が二人掛かりで別の負傷者の膝から下を切断し、大腿部からは砲弾の破片を取り除いた。その負傷者は臀部も負傷していて、弾片が尾骨を粉砕して内臓にまで達していた。我々はひとまず少し休憩して夕食を食べ、引き続いて徹夜で手術をおこなった。

我々は今日最も悲惨な事件を耳にした。十月二十八日の爆撃で、この付近の防空壕に爆弾が命中したが、その中の四十人が一人残らず爆死したというものだ。事実は次のようであった。一人の子どもが防空壕の中で恐怖のあまりに大声で泣き出したが、誰もそれを止めることができなかった。ある人がその子の母親に、飛行機を呼び寄せる恐れがあるから子どもを外に出すように求めた。母がそれを受け入れようとしなかったので、父親が子どもを連れて外に出て林の中に避難した。いくらもしないうちに、爆弾がこの簡易防空壕に命中して、四十人もの命を奪ったというのであった。

 

十一月十二日。今天是恶魔的日子。一个带钢盔的中国士兵在医院外窗口时,正好日本飞机来袭击,他离开了窗口跑进医院。这时炸弹在医院周围落了下来。我也为自己当时利己的行动而感到后悔。我只考虑到自己的生命安全。我匍匐下来,病房里已没有一个护士,我由于惊恐好象精神失常了,成了可耻的胆小鬼。炸弹一个接一个地落下来,爆炸声震耳欲聋。我知道有几枚炸弹落在医院附近,幸运的是我未受伤。伤员马上送到了。第一个人因惊吓而死。另一个人因剧烈震荡而失去知觉,已无希望保全生命了。还有一人胸部负了重伤也全然没希望了。一位父亲送来了一男孩和一女孩。男孩一只眼失明,女孩两条腿被炸得粉碎。一老人背来了全身都负了伤,已经奄奄一息的老伴。日本飞机乱炸的牺牲品一个接一个地抬进医院。有人说飞机看错了目标,但是我相信他们是故意这样做的。医院屋顶飘着美国国旗,屋顶上用油漆画着美国国旗,而且日本飞机是低空飞行的,没有误认的理由。医院损失相当大。墙壁倒塌,电线杆折断,电线断裂,弹片横飞,把房屋炸得粉碎,瓦砾余烬,堆积遍地。居民都逃走了。我也听到附近的住户,钉闭门户的杂乱声,他们都急欲离城。医院的中国职员放弃了工作逃亡去了。关于中国职员逃亡,院长没有明确讲其它具体处理办法。医院不可能再继续工作了,必须首先考虑院内的病人转移的工作。我对这个工作没感到有什么兴趣。但深思熟虑一下,我想还得必须继续工作,准备坚持到最后,可是我感觉完全象女人一样,收不住骚动的心情。

 十一月十二日。今日は悪魔の日だ。鉄かぶとをかぶった一人の中国兵が病院の外の窓口にいたちょうどその時に、日本軍の飛行機が来襲したので、彼は窓口から離れて病院の中に飛び込んだ。その瞬間に爆弾が病院の周囲に落下した。私はその時の自分の行動が利己的であったと後悔を感じている。私はただ自分の生命の安全だけを考えていた。私が腹ばいで出てみると、病室にはすでに一人の看護師もいなかった。私は恐怖のせいで精神に異常をきたしそうだった。私は恥ずかしいほど気が小さい男になってしまった。爆弾が一発また一発と落下する爆発音が耳をつんざいた。私は何発かの爆弾が病院の近くに落下したことを知っていたが、幸いなことに私はまだ負傷していなかった。負傷者たちはすぐに病院に送り込まれてきたが、そのうちの一人はショック死していた。別の一人は、激烈な震動で知覚を失っており、すでに生命が維持できる望みはなかった。また、ある者は胸部に重傷を負っており全く望みがなかった。一人の父親が男の子と女の子を連れてきたが、男の子は片目を失い、女の子は両股が吹き飛ばされていた。一人の老人が全身に傷を負ってすでに息も絶え絶えな老妻を背負ってやって来た。日本の飛行機の無差別爆撃による犠牲者たちが次々と病院に運ばれてきた。日本軍機が目標を見間違えたのだとある人が言ったが、私は日本軍が故意にこのような攻撃をおこなったと思っている。病院の屋上にはアメリカの国旗が翻っていたし、屋上にペンキでアメリカ国旗が描かれていた上に、日本の飛行機は低空飛行をしていたから誤認するはずなどなかった。病院の損失もかなり大きなもので、壁は倒壊し、電信柱は折れ、電線は切れ、砲弾があたりの家屋を粉砕して、瓦礫や燃えかすが至る所に堆積していた。住民はみな逃げ出していた。私は近所の住宅が扉を釘付けにしている乱雑な音を聞いた。彼らはみな急いでここから避難しようとしているのであった。病院の中国人職員は仕事を放棄して逃亡していた。中国人職員の逃亡に関して、院長はとくに具体的な対処法を明確にしなかったが、病院が継続して治療することが不可能であったので、病人たちをどこに移すかということをまず考えなければならなかった。私はこの病院での仕事に何らの興味も感じていなかったが、沈思熟慮の末に、継続して治療に当たることが必要だと思い直して、最後まで仕事を続けるつもりになったが、私の気持ちはまるで女のようで、心が落ち着かないのを感じていた。

 

十一月十三日。没有一位医生来上班,我知道,昨晚几位医生开始乘军用车逃亡了。护士们没有逃,汽车都去前线了,能乘的车已经没有了。院长焦虑着病人的转移,最困难的是没有转移病人的方法。还有留在医院的人们没有受到援助的可能。也许是陷入了绝境,全然没有任何方法,院内骚乱起来。医院里仅剩下一个看守,一个伙计,几个护士。可是他们在一两天内乘车都相继出发了。烹饪人员,洗衣服的人,伙夫,司机,木匠,手术室的杂役工,药剂师,化验室职员都陆续地逃亡了。剩下的病人无法照顾,幸运的是几个病人自愿出院,剩下的病人全部只有十二名了。

因为在无锡没有驻军,至今也不象苏州和其它地方那样悲惨。但现在由于日本飞机轰炸城内,出现了极为残酷的结果。根据今天的消息,这些伤兵都将被转移到军用医院。我们安心了,可是这同时表明无锡成了第一线。

 十一月十三日。医者は一人として出勤してこなかった。私は昨晩数名の医師が軍用車に乗って逃亡したことを知った。看護師たちも逃げようとしたが、自動車がすべて前線に回されていて車に乗ることができなかったのであった。院長は病人の移動にやきもきしていた。最も困難なことは病人を移動させる方法がなかったことである。また、病院の入院患者が援助を受けることが可能な方法がなかったことである。そのことで窮地に陥るかも知れないが、全く何らの方法も見いだせず、病院内は騒然としていたのである。病院には一人の見張りと一人の雑役係、それに数人の看護師が残っているだけであったが、彼らも一両日中に車に乗って出発することになっていた。調理人、洗濯人、炊事係、運転手、大工、手術室の雑役人、薬剤師、実験室の職員なども次々に逃亡してしまった。残された病人の面倒を見ることもできなかったが、幸運なことに数名の病人が自発的に退院したので、残された病人は全部で十二名しかいなかった。

無錫には中国軍が駐屯していなかったので、今までのところ、蘇州やその他の地方のようには悲惨でなかったが、今では日本軍の飛行機が城内を爆撃するようになったので、きわめて残酷な事態となっていた。今日のニュースによると、ここの傷兵はみな軍用病院に移されるとのことである。我々は安堵したが、同時にこれは無錫が前線となることを意味するものだった。

 

十一月十四日。我开动一台旧式的汽车马达,试试是否尚可行驶,结果良好。挂上了美国国旗我们决定明早出发。

 十一月十四日。私が一台の旧式自動車のモーターを始動させて、走るかどうかを試してみたところ、結果が良好だったので、明朝アメリカの国旗を掲げて出発することを決めた。

 

十一月十五日。早晨五时半,离开了无锡,经过西门的废墟。军队云集,黄包车,马车,难民象流水一样地从城内涌出。气氛非常紧张,这是恐怖爆发的前兆。我们每经过一个城市,都看到有很多民众等待着长途汽车,我们继续向西行,随着前进气氛渐渐平静了。夜间十一时,我们来到了南京。军事上的行动愈来愈活跃起来。我们考虑要回上海。

 

十一月十五日。早朝五時半に無錫を離れて、西門の廃墟に向かった。軍隊が雲霞のように集まり、人力車、馬車、避難民がわき出る水のように城内から出て行った。非常に緊張した雰囲気で、それは恐怖が爆発する寸前の様子だった。我々は一つの城市を通過するごとに、多くの民衆たちが長距離バスを待っているのを見た。我々は引き続き西に向かったが、前進するにつれて気分は次第に平静になってきた。夜の十一時に、我々は南京に到着した。軍事上の動きはますます活発化していた。我々は上海に帰ろうかとも考えた。

 

十一月十九日。昨天乘船离开了南京,今天停泊在镇江,明晨预定换乘小船沿运河去内地。这是为了避开长江的封锁线。

 十一月十九日。昨日船に乗って南京を離れ、今日は鎮江に停泊している。明朝は碼頭で小舟に乗り換えて運河沿いに内地へ行く予定だが、それは長江の封鎖線を避けるためであった。

 

十一月二十一日。回到了上海,刮去了战地的胡须,住在使人快乐的家里。当然是很舒服了。但我不能忘掉过去的灾难和痛苦。这仅仅一个月的时间,我目睹的现实使我永远厌恶战争。无辜的人民遭受的灾难是用笔墨不能形容的。无论什么人只要亲身经历一次战争,中立法也就不需要了。

 

十一月二十一日。上海に戻り、戦地で伸びたひげをそり落として、他の人たちにも快適な家に住んでもらいたいと思ったことで、当然ながら自分でも気分がよくなったのである。しかし、私は過去に味わった災難と苦痛を忘れることができないのである。このわずか一か月間の間に、私が目撃した現実は、戦争を永遠に嫌悪させるものであった。罪もない人々が受けた災難は、筆舌に尽くしがたいものであった。無論、どんな人でもひとたび戦争というものを身近に経験したならば、中立法などというものが全く意味のないものであることがわかるだろう。

 

 

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