南京事件・六章


第 六 章   黑 暗 笼 罩 下 的 城 市(其一)

  一九三七年八月九日,一名日本军官和一名陆战队员驾驶汽车在上海西郊的※虹桥中国军用机场附近行驶途中,遭到中国军队的阻击后死亡。于是上海及长江三角地带成了中日两国的战场。

※虹桥中国军用机场…上海市長寧区虹橋路に位置する空港で、一九〇七年に軍用空港として開港された。

第 六 章 暗 黒 に 包 ま れ た 城 市(その一)

一九三七年八月九日、一人の日本軍将校と一人の陸戦隊員が自動車に乗って上海西郊の虹橋にある中国軍用飛行場付近を進行中に、中国軍の狙撃にあって死亡した。そのことがきっかけで上海および長江の三角地帯は、中日両国の戦場となった。

  中国军队在八月间采取了攻势,试图将日本军驱逐出※公共租界的根据地,这个努力以失败告终。为了抵抗日本陆,海,空军的立体进攻,中国军队曾多次转移阵地。最后,由于日军形成了包围的形势,无耐被迫于十一月十四日开始从上海附近撤退。中国军队的英雄失败和英雄抵抗是长江区域内战争的特征。日军占领上海,苏州,杭州等广大面积内的主要城市和交通线后,继续前进,于十二月十三日攻占了※国民政府的首都 ―― 南京。

(補記)日本軍は、1937年8月13日、上海に進攻したが中国軍の強力な抵抗にあって、占領までに三か月もの苦戦を強いられた。その教訓から中国軍の抗戦意志をくじく必要性を認識して、8月15日には当時の首都であった南京に対して無差別爆撃を開始した。日本軍は、それに引き続き三つのルートに分かれて南京への進撃を競わせたが、「現地での徴発によって軍事物資をまかなえ」と命じた。それによって、略奪、放火、殺人、強姦などの事件が発生したとされている。

※公共租界…共同租界。厦門(アモイ)や上海などの開港都市で、諸外国が共同で行政権を持っていた地域。
※国民政府…中国国民党が組織した政府で、当時は蒋介石が実権を握って南京を首都と定めていたが、日本軍の侵攻によって一時的に重慶に移った。

中国軍は、八月中は攻勢を占めて、日本軍を共同租界の根拠地から駆逐しようと試みたが、この努力は失敗に終わった。日本の陸・海・空軍の立体的な進攻に抵抗して、中国軍は数次にわたって陣地を移動させていたが、最後には、日本軍の包囲の態勢が整ったため、それに耐えきれずやむなく十一月十四日に上海付近からの撤退を開始した。こうした中国軍の英雄的な失敗と英雄的な抵抗は、長江区域における戦争の特徴であった。日本軍は上海、蘇州、杭州などの広大な面積内の主要な都市と交通網を占領したが、引き続き前進して、十二月十三日には国民政府の首都の南京を攻略した。

  日军席卷的地区,在中国是人口最稠密,并且是最富裕的地区。他的铁蹄践踏过的地方广大人民陷入涂炭的苦难之中,文化被全部摧毁。本章收集了几篇报道,真实地描写了悲惨的轮廓。

日本軍が席巻した地区は、中国でも人口が密集していて、かつ最も富裕な地区であった。人民を踏みにじる彼らの残虐行為に遭遇した地域では、多くの人民が塗炭の苦しみをなめ、全ての文化は破壊されたのであった。この章で集めた数編の報告は、その悲惨な状況を正確に描写したものである。

  一位外国人调查员在日军占领前后几次赴这个地区进行了慎重的调查,发表了在本次长江三角地带的战斗中,至少有三十万中国人牺牲的调查结果。他叙述到:日本兵强迫老人和孩子运输重物资,等他们力竭倒地时,日本兵将其刺死,扔进路边的水沟里。日本兵对死人也要凌辱,日军经过的地方有很多中国坟墓被挖掘,棺木用来作燃料。据他观察的结果,认为日军向南京推进时采取了一种有计划的恐怖政策。

一人の外国人調査員は、日本軍が占領する前後の数回にわたってこの地区に出掛けて慎重に調査した上で、今回の長江三角地帯の戦闘中に、少なくとも三十万人の中国人が犠牲になったという調査結果を発表した。彼の述べた内容は次のようなものであった。日本兵は、老人や子どもに重い物資の運搬を強制し、彼らが力尽きて地面に倒れるまで働かせ、それを待って刺し殺したり、道沿いの水路に突き落としたりなどした。日本兵は、軍が通過する地域で中国人の多くの墳墓を掘り起こし、棺桶の木材を燃料として使用するなど、死者に対しても侮辱を加えた。彼はまた、日本軍が南京に向けて進軍する時に、一種の計画的な恐怖政策なども採用していたとも述べていた。

一位英国记者赴松江(上海南三十英里)视察后,于一月十四日致电伦敦,报告以下具体的事实:
  “松江是昔日※戈登将军指挥的※常胜军的总司令部的所在地,是※沪杭沿线繁荣的县城之一。当今变成满目荒凉景象,房屋连缀的市街由于轰炸遭到破坏,没有一间完整的房屋。倒塌的墙壁,烧焦的土地,完全是恐怖的景象。只能见到吃死人的臃肿的野狗。松江原有十万左右人口,我在法国教堂的角落只见到五位老人,他们流着眼泪恳求我,带他们去上海。

※戈登将军…常勝軍司令官であったチャールズ・ゴードン。
※常胜军…太平天国の乱を鎮圧するため、1860年にアメリカ人ウォードが編成した外国人と中国人との混成義勇軍。その後、イギリス人のゴードンがこれを率いて乱の鎮圧に大きく貢献した。
※沪杭沿线…滬杭線の沿線。「滬杭線」は上海と杭州とつなぐ鉄道。

一人の英国人記者は、松江(上海の南三十マイル)を視察した後に、一月十四日にロンドンに打電して、次のような具体的な事実を報告した。
「松江はかつてゴードン将軍が指揮した常勝軍の総司令部の所在地で、滬杭線沿線で繁栄した都市の一つであったが、今では変じて見渡す限り荒涼たる情景が広がり、民家が軒を連ねた市街も爆撃によって破壊され、一つとして完全な家屋はなくなった。倒壊した塀、焼け焦げた土という、まったく恐るべき情景である。見かけるものと言えば、死者を食らってぶくぶく太っている野犬ばかりである。松江はもともと十万前後の人口を有していたのだが、私はフランスの教会堂の片隅で五人の老人を見ただけであった。彼らは涙を流しながら上海に連れて行ってくれと私に懇願した。

“松江这种状况恰好说明了上海,南京之间广大,繁荣的三角地带的情况,表明了这是一场历史上最大规模的人口移动。成千上万,实际上有几百万的中国人离开了※这个地区。然而,谁也不能答复这个问题:他们陷入何等困境。上海至松江的三十英里范围内如同沙漠,映入眼帘的是未经收割的稻子倒在田里发霉;烧焦的废墟;遭破坏的村舍点缀着沿线的景色。只有令人毛骨悚然的臃肿的野狗远远地守望着田园。

※这个地区…この地区。上海から松江に至る地区全体を指す。

松江のこうした状況は、ちょうど上海と南京の間で広く繁栄していた三角地帯の状況と酷似しており、この場所は歴史上最大の規模の人口移動があったことを示している。何千何万の、実際は数百万の中国人がこの地区を離れた。しかも、我々は誰も彼らがどのような困難に陥ったかについて答えることができない。上海から松江に至る三十マイルの範囲内は砂漠同然で、目に映るものは刈り取らないまま田畑に倒れてかびが生えた稲や、焼けただれた廃墟に、破壊された田舎の家屋が沿線の点描のような景色となって残っているばかりであった。生きているものは、田園のあたり一帯を見張っている身の毛のよだつような醜く肥え太った野犬ばかりであった。

路上遇到大批大批开回上海的日军。这些军队都是满载而归,看上去非常滑稽。战马拖着黄包车,车上装满了箱笼皮包;日本兵有骑驴的;有骑黄牛的;也有骑水牛的;炮车上拴着活猪。这支掠夺部队不知从哪儿还抢来了鸡。卧伍浩浩荡荡行进着。在一处遇上了日本装甲车和野战炮部队,我看到了日本兵喝干的啤酒瓶堆集如山。

途中で、上海に引き上げるおびただしい数の日本軍に遭遇した。これらの部隊はみな物資を満載しており、その姿は非常に滑稽なものとして目に映った。戦馬が牽引している人力車の上には、行李やトランク、あるいは革鞄などが山と積まれていた。日本兵はロバやアカウシ、水牛などにまたがり、生きた豚が砲車の上にくくりつけられていた。これらの略奪部隊がどこかで盗んできた鷄どもが隊列の後ろに広がってのこのこと追いかけていた。また、別の所では、日本軍の装甲車や野戦砲部隊にも遭遇した。また、私は日本兵が飲み干したビール瓶が山のように積み上げられている光景も目撃した。

‘上有天堂,下有苏杭’,苏州被人们称作中国的‘威尼斯’,是※京沪线沿途一个山清水秀的名胜。离上海五十英里,除铁路外,还有几条公路相通。凡是来中国的外国人无人不知苏州的,平时有人口三十五万。事实上,中国军队撤离上海后苏州没有任何军事设施。一九三七年十一月十九日落入日本军队的手中。”

※京沪线…北京と上海を結ぶ鉄道。

“天に天堂あり、地に蘇杭あり”と人々が称する蘇州は、中国の“ベニス”と呼ばれ、京滬線沿線の山紫水明の名勝地である。上海を去ること五十マイルにあり、鉄道以外にも何本かの公路が通じている。およそ中国に来た外国人で蘇州を知らぬものは誰一人いないだろう。平時には人口が三十五万人で、中国軍が上海から撤退した後は、実際のところ蘇州には何らの軍事施設もなかった。そして、一九三七年十一月十九日に日本軍の手中に陥ったのだった」

  关于苏州的情形一个美国人写了以下的报道,原文刊载在一九三八年三月十九日的上海评论周刊上。题目为《中国的毁灭》。编者就此解释道:“本文的作者是在中国居住三十五年的外国人,姓名不能公开。亲眼看到了日本军队的残暴行径,他的报道极其真实。”原文如下:

以下の報告は、一人のアメリカ人が蘇州の状況を述べたもので、原文は一九三八年三月十九日の週刊上海評論に、「中国の壊滅」と題されて掲載されたものである。編者はこれについて、「本文の作者は中国に三十五年居住した外国人であるが、その姓名は公開することが出来ない。自分の目で日本軍の残虐な暴行を目撃したので、彼の報告は極めてその真実を伝えている」と解説した。原文は以下の通りである。

  “十一月第二个星期内,日本飞机开始向苏州市区投掷高度爆炸性的炸弹,于是美丽古雅的苏州城所有三十五万居民 ―― 年老的,年轻的和残弱的,面对着令人厌恶的野蛮势力,威为无法挣扎的可伶虫。

「十一月の第二週のうちに、日本軍の飛行機が蘇州の市区に高性能爆弾の投下を開始したので、美しく優雅な蘇州地区に住む三十五万の住民は、老いも若きも障害者も、この憎むべき野蛮な勢力によって、哀れにも抵抗するすべを失っていた。

  大型炸弹从天上急速地落下来,猛烈地爆炸,恰似巨大的瀑布一样,肢体,尘垢,瓦砾,泥土飞向空中,真是令人惊恐的场面。使我们不敢正视这一切。日本飞机在空中飞了一整天,投下了死亡的‘礼物’。

大型爆弾は空から急速に落下して猛烈に爆発し、まるで巨大な滝のように四肢、塵芥、瓦礫や土ぼこりが空中に舞い上がり、人々を恐怖に陥れて、我々にはとても正視することの出来ない状態であった。日本軍の飛行機は一日中空を飛び回り、死をもたらす「贈り物」を投下したのであった。

  轰炸的最初几天里,惊恐的苏州市民大多数都躲避在防空壕中。后来由于空袭频繁了,我们便讨论,是继续躲在防空壕里避难呢?还是冒着生命危险,照常工作。最后我们决定,在空袭的情况下照常工作。

爆撃の最初の数日間は、恐怖におののく蘇州市民の大多数が防空壕の中に避難した。その後も空襲が頻繁に行われたので、我々もすぐに防空壕に避難すべきか、あるいは生命の危険を冒していつも通りの仕事をすべきかを討論して、結局は空襲下でも日常の仕事に従事すべきだという結論に達したのだった。

十一月九日日本飞机散发了警告的传单,说三天后将对苏州全城进行猛烈的轰炸。真的可能吗?我们实际上已经住在地狱里了。毁灭历史悠久的苏州城的警告使我们非常恐惧,不知道用什么词句来形容不久就要出现的悲剧。我看到了众多的男女老少,成群结队地携带着一些行李离乡背井。我感到非常凄惨。这种感觉无法向你表达。

十一月九日、日本の飛行機は、三日後に蘇州の全域に猛烈な爆撃を加えるという警告のビラを散布したが、そんなことがほんとうにできるだろうか?我々は実際のところすでに地獄の中に住んでいた。悠久の歴史を持つこの蘇州地域が壊滅するという警告は我々にとって非常に恐ろしいもので、間もなく出現する悲劇をいかなる言葉で表現すればよいかわからなかった。多くの老若男女が群れをなして隊列を組み、わずかな荷物を携えて故郷を離れていくのを見て、私は非常に痛ましく無残なものを感じた。この気持ちはあなたにはとうてい理解してもらえないだろう。

  民船,黄包车以及其他的运输工具已经没有了。大部分难民不得不徒步奔逃。事前我和一位同事从中国军队方面借来两只民船,十一月十二日傍晚我开始运送第一批难民去广福,本打算马上返回苏州运送第二批难民。但因为这两只船被中国军队征收了去,只剩下一艘汽艇。我把汽艇交给同事,他和其他朋友又向广福出发了。

民間の船も人力車も、その他の運輸手段もすでになくなっていた。大部分の難民は徒歩で逃げ出さなければならなかった。私と一人の同僚は、あらかじめ中国軍側から借り受けていた二隻の民間船で、十一月十二日の夕方に、第一次の避難民を広福に運ぶことを開始した。もともとは、すぐさま蘇州に引き返して第二次の避難民を運ぼうと計画していたのだが、その二隻の船が中国軍に取り上げられてしまったので、ただ一艘だけ残っていた汽艇で、やむなく私と同僚に加えてその他の友人たちは広福に向けて出発した。

  由于时间晚了,我和朋友在城外寂静的医院的一间房里过了一夜。恰好,那天晚上日本飞机进行了全面的空袭。只有上帝和未逃出去的人们饱尝了那天夜里的恐怖。日本飞机先是向城里以及周围投照明弹,接着死亡的炸弹乱飞。谁也不知道日军向这个无防备的城市投下多少枚炸弹。整整十二个小时内,炸弹象雨一样地下。我的朋友趴在地上,我几次从床上钻进床下。我竟然奇妙地认为床下最安全。

時間が遅かったので、私と友人は城外の静かな病院の一室で一夜を明かした。ちょうどその晩は、日本軍の飛行機が全面的な空襲を行ったので、神様と逃げ遅れた人たちがその夜の恐怖を十分に味わったのだった。日本軍の飛行機は、まず城内とその周囲に照明弾を落とし、引き続いて死に至らしめる爆弾を無差別に投下した。誰一人として、日本軍がこの無防備な都市に何発の爆弾を投下したかについて知っている者はいない。まる十二時間、爆弾は雨のように降り注いだ。私の友人は床にうつぶしたが、私は何回にもわたってベッドから降りてその下に潜り込んだ。私は奇妙なことに、あろうことかベッドの下が最も安全だと思っていたのである。

  天刚亮,我们进城。我所见到的死亡和破坏的惨状怎么用笔也写不出来。我心中被痛苦压抑着。看到了一位中国牧师带领着一千多个难民往广福去。那是多么悲惨的景象啊!孩子,老人,瘸子,还有被炸残的人们满满地跟在牧师的后面蹒跚前进。这使我联想起了※当初的基督。两天里有五千难民从苏州到广福避难。

※当初的基督…磔刑に処せられるゴルゴタの丘へ向かうイエス・キリストの後を信者たちが追う姿を連想する。

やっと夜が明けたので、我々は城内に入った。我々の見た死体と破壊の惨状は筆舌に尽くしがたいものであった。私の心中の痛苦は抑えがたいものである。一人の中国人牧師が千人を超える難民を広福に連れて行くのを見たが、それは何たる悲惨な光景であったことか。子ども、老人、足の不自由な人、および、砲弾で手足を失った不具者たちが満ちあふれて、牧師の後をよろめきながらついていった。その有様は、当時のキリストのことを私に思い起こさせたのだった。二日間で、五千人の難民が蘇州から広福へ避難したのである。

  我也去了广福。十一月二十一日才开始返回苏州。我们沿途须小心避免践踏尸首。我们到苏州时,正是日本兵掠夺的高潮。只是未动教会的财产。从那天至十二月十一日我们差不多每天往返苏州与广福之间。我们目击了银行,商店,住宅的门被砸开,日本兵鱼贯地进出,然后象蚂蚁一样把家具,商品统统搬走。

私も広福に行き、十一月二十一日にやっと蘇州に戻って来た。我々は道沿いの死体を踏みつけないように注意を払わなければならなかった。我々が蘇州に到着した頃は、日本兵の略奪はまさに頂点に達していた時期だった。しかし、教会の財産はまだ手を付けられていなかった。その日から十二月十一日まで、我々はほとんど毎日のように蘇州と広福の間を往き来していた。我々は、銀行、商店、住宅などの門が破られ、日本兵が蟻のように連なって次々と出入りし、家具や商品などを残らず運び出しているのを目撃した。

  可是,有一次我们终于发现教会也遭到了掠夺。正门,旁门,后门均被砸开,校舍和住宅的窗子很明显地被斧子和刺刀破坏过。家里的每间屋子都被日本兵搜索过。所有的箱子都翻了,不重要的东西扔得满地都是,乱七八糟的。我的住宅也同样。朋友家的一架小提琴被摔在地上,破坏到不能再修理的地步。

しかし、あるとき我々は略奪にあった教会も発見することとなった。正門も通用門も裏門もすべて破壊され、校舎と住宅の扉は明らかに斧や銃剣などで破壊されていた。家の中のそれぞれの部屋はすべて日本軍に捜索され、トランクなどはみなひっくり返されて、重要でない品物はみな床に放り出されており、乱雑を極めていた。私の住宅も同様であった。友人の家ではバイオリンが地面に投げ捨てられており、再び修理することが不可能なほどに壊されていた。

   一天,我去察看晏成中学的校舍。因为去的突然,在校内与日本兵狭路相逢。他们正在拼命地打一个保险箱。一个士兵用撬杠撬柜门,另外几个士兵企图将其整体砸毁。还有几个士兵正在搬运校长和教务长的办公桌。我找翻译的工夫,他们带着家伙扬长而去。要是在过一个小时,保险箱就会被打开了。

ある日、私は晏成中学の校舎を視察しに行った。突然出かけたので、校内で日本兵と鉢合わせして抜き差しならない状態になった。彼らはまさに一つの金庫を破ろうと夢中になっている状態であった。一人の兵士は金てこで扉を開けようとしていたし、別の数人の兵士たちは金庫全体を破壊しようとしていた。さらに別の兵士は校長と教務長の部屋から机を運びだそうとしていた。私が通訳を探して間に、彼らは大手を振ってそれらを持ち去ってしまった。もしも私があと一時間遅かったならば、金庫も破られていただろう。

  我离开校舍时,听到教堂里传出的钢琴声。走进去一看,一个军官正在弹琴,几个士兵要把礼堂里的桌子往外搬,我斥责他不该放纵士兵来动掠教堂,那军官惶恐地站起来走了。

私が校舎から出ようとした時、礼拝堂の中からピアノの音が聞こえてきた。中へ入って見ると、一人の将校がピアノを弾いており、何人かの兵士たちが礼拝堂のテーブルを運び出そうとしていた。私が礼拝堂のものを勝手に勝手に持ち出してはいけないと兵士を厳しく責めたところ、その将校も恐縮してピアノから立ち上がり去って行った。

  翌日早晨,我们再次来到晏成中学,保险箱终于被打开了,偷走了四百美元,有趣的是装有三百美元的信封,原封不动地被扔在地板上。可能是觉得信没什么用吧?经我调查几个教会的保险箱及商店的大保险箱都被破坏,里面的东西都偷走了。所谓日军的‘好军纪’,显然是无稽之谈。

翌日の早朝に、我々は再び晏成中学に出掛けた。金庫はとうとう破られ、四百ドルが盗まれていたが、面白いことに三百ドルの封筒があったのだが、これには手が付けられていなかった。床の上に捨てられていたので何の役にも立たないと思われたからだろうか?我々の調査によれば、いくつかの教会の金庫や商店の大きな金庫がすべて破壊され、中に入っていたものは全て盗まれていた。日本軍のいわゆる「軍紀粛正」はまったく信用できないものである。

  老实说,对于苏州大规模的掠夺行为,我们不责怪每个日本兵,而要斥责日本军队。为什么呢?因为脏物的数量之多,是每个士兵无法随便带走的。事实上,我们几次看到很多被掠夺来的物品装上了军用汽车,满载中国紫檀木家具的汽车,停在日军司令部门前。

正直に言えば、我々は蘇州での大規模な略奪行為は、個々の日本兵を責めるのではなく、日本の軍隊を責めるべきであろう。なぜならば、盗品の数量は個々の兵士が勝手に運べるようなものではなかったからである。事実、我々は略奪された非常に大量の物品が軍用自動車に乗せられていたり、中国の紫檀製の家具を満載した自動車が日本軍の司令部の前に停められている光景を何回も目撃したのである。

  日军占领苏州后,我们刚回来时,街头上死尸累累。这些尸体足足被放置十天以上,因此,这里的野狗是非常肥的。破坏的建筑也没有修复。损失总额可能达到几百万元以上。

日本軍が蘇州を占領した後に、我々が戻って来たところ、街頭には死体が累々と横たわっていた。それらの死体はまるまる十日間以上も放置されていたので、あたりの野犬は非常に肥え太っていた。建築物の破壊は修復不能な状態で、損失の総額は数百万元以上に達しているだろう。

  以上所述固然令人惊骇,但更使人悲痛的是各阶层的妇女受到的侮辱。日本兵的强奸事件谁也无法做出统计,作为我个人就知道几起强奸事件。所以,我相信接触的一切报告都是真实的。就我们来说,没必要去统计了。为什么呢?曾举出过九千五百件或九千六百件的强奸数字。恐怕罪恶毕竟不是数字能说明的。一天早晨我见到了东吴大学的一位学生,他流着泪说日本兵强奸了他美丽的妹妹。我还见到过许多村民在路旁捶胸顿足,因为日本兵追赶他们,把他们的妻子和孩子抢走了。

前述の事柄は、むろん人を驚かせるものであろうが、さらに人々を悲しがらせることは、日本軍が各階層の婦女子を凌辱したことである。日本兵の強姦事件は、統計を取ることが誰にも出来ないほどの数であるが、私個人としては何回もの強姦事件について知っている。それゆえ、私が入手した一切の報告はみな真実であると信じている。我々はそれに関して、統計を取る必要はないと考えている。なぜかと言えば、かつて、九千五百件あるいは九千六百件の強姦事件の数字を挙げたことがあるが、この恐ろしい罪悪は、つまり数字などでは説明しきれないからである。ある日の朝、私は東呉大学に通う一人の大学生に会ったが、日本兵が彼の美しい姉妹を強姦したことを彼は涙ながらに語った。さらに、私は多くの村民たちが道ばたで自分の胸をたたいたり地団駄を踏んで悔しがっている姿も見た。日本兵が彼らを追い出して、その妻や子どもたちを連れ去っていったからであった。

  一天晚上,一个中国人恳求我住到他的家里,去保护他的女儿和几个避难的姑娘,我答应了。当夜十一点钟,我被手电筒光惊醒(光束是从门上的小窗照进来的)。‘日本兵来了’。不知谁在我耳边小声说。我拿起电筒跑进隔壁的房里,我看到三个日本兵正在用电筒照睡在那里的十位姑娘,我大声斥责了他们。士兵们匆匆下楼梯走开了。那房子的主人,在紧张关头站在我的旁边,没有离开。

ある日の晩のことであった。一人の中国人がやって来ては、私が彼の家に留まって彼の娘と避難してきた数人の若い女性たちを守ってくれるようにと懇願したのだ。私は快諾したのだが、その晩の十一時頃に、私は懐中電灯の光で目を覚まさせられた(光は出入り口の上の小窓から入って来た)。「日本兵が来た」と誰かが私の耳元で小声でささやいた。私が懐中電灯を持って隣の部屋に駆け込むと、三人の日本兵がそこにねむっている十人ほどの若い女性をまさに懐中電灯で照らしているところだった。私が大声で叱りつけると、彼らはあわてて階段を逃げ降りていった。その家の主人は、神経が張り詰めた状態で私の傍にくっついて、離れようともしなかった。

  我对于以下事情如果不下断言,我的良心难容。如果有人相信在华的日本军是为中国人的生活过得更好更愉快,那就请看一看南京上海二百英里以内的情况吧。看一看难以置信的荒凉及遭破坏的状况吧。六个月以前,这一带是地球上人口最稠密的地区,也是中国最繁荣的地方。

もしも、私が次のような事柄を明言しないでいたならば、それは私の良心が許さないだろう。もしも、中国の日本軍が中国人の生活をさらに向上させ、さらに愉快なものにするために存在すると信じている人がいたら、ぜひ南京と上海の間の二百マイルの状況を見ていただきたいと思う。その荒涼たる破壊的な状況はなかなか信じられないものであろう。六か月前は、その一帯は全世界で最も人口密度の高いところであり、中国で最も繁栄したところであった。

  现在见到的却是遭轰炸后的城市和化为灰烬的乡村和小镇。荒废的农田里只有少数的老翁和老妇在默默地耕种着。家畜不是被杀就是被掠夺。凡是具有现代装备的野蛮军队所能干的破坏行动,都被日本军队干尽了。

ところが現在は、爆撃された都市と灰燼に帰した郷村や部落が目に入るばかりで、荒廃した農地はわずかに少数の老人男女が黙々と耕しているだけである。家畜も殺されたか略奪されたのだった。そもそも、近代的な装備を持った野蛮な軍隊の「有能な」破壊活動によって、すべてが日本軍に破壊し尽くされてしまっているのである。

   放弃家园的百姓们现在在哪里?
无数的平民被杀害,很多人已残废,大多数的中国人逃进了收容所或山洞里。他们不敢重返荒芜的田地,空无一物的商店,完全被破坏了的工厂。一些人也曾回来过,但疯狂的日本军人不准他们进入。

田畑を捨てた農民たちは、今どこにいるのだろうか?
無数の市民が殺害され、非常に多くの人々が体に障害を負った。大多数の中国人は収容所か山の洞窟の中に逃げ込んだ。彼らは荒れ果てた田畑や何もなくなった商店、完全に破壊された工場などにふたたび帰ろうとはしなかった。わずかに数人だけが戻って来たが、狂気に満ちた日本軍は彼らを入れることはなかった。

  鉴于以上种种事实,掌握交通线的日军,向全世界宣称现在中国人返回了家园,过着和平美满的生活。实在是厚颜无耻之极。”

以上のような種々の事実にもかかわらず、交通機関を掌握した日本軍は、全世界に向かって、中国人は現在それぞれの故郷に帰り、平和で満ち足りた生活をしていると宣伝した。まことにこれは厚顔無恥の極みである」。

  芜湖是长江流域相当繁华的商埠。离南京五十八英里,离上海二百六十三英里,人口约十四万。几年来芜湖也是一个重要的教会中心。一九三七年十二月十日,也就是南京陷落的三天前日本军占领了芜湖,下面的文章是抄录一位外国牧师的信。说明了日本军占领芜湖前后至一九三七年十二月三十日为止的情形:

蕪湖は長江流域のかなり繁華な貿易都市で、南京から五十八マイル、上海から六十三マイル離れ、十四万人の人口を擁していた。数年前から、蕪湖は教会の重要な中心の一つでもあった。一九三七年十二月十日、すなわち、南京が陥落する三日前、日本軍は蕪湖を占領した。次の文章は、一人の外国人牧師の手紙の抄録で、日本軍が蕪湖を占領する前後から一九三七年十二月三十日までの状況を説明したものである。

  “自战争波及到芜湖地区后,我想贵兄一定象我们担心贵兄一样地惦记着我们。在这里我仅向贵兄简单地报告我们这里发生的若干事情。概括地叙述从十二月五日开始,在这段困难时期,我们所处的环境。

「戦争が蕪湖地区にまで波及したので、我々が貴兄のことを心配しているように、貴兄もきっと我々のことを気にかけているものと思う。私はここに留まって、この地で発生した若干の事情を何とか貴兄にだけは報告する。十二月五日を起点として、この困難な時期に我々の置かれた環境を概括的に叙述する。

  十二月五日是星期日,我们正在教会做礼拜。突然上空传来了飞机声(这对我们已是习以为常了)。接着听到了连续的爆炸声,大家都站了起来,我们并不觉得有什么可怕,主张打开窗户。我们继续进行礼拜的仪式,这了十来分钟,又听到更猛烈的爆炸声。我们走出教会,看到怡和洋行的船起火了。火车站也被浓烟笼罩。好不容易待到飞机离去。我叫人准备汽车,司机不知道跑到哪里去了。无奈,只得请同事开车。我们赶往现场,虽然轰炸已过了三十分钟,但在江岸的路上,我们看到还有伤员被陆续送往医院。谁也没预料到会有空袭,而且损害的情形非常惨重,到处是死尸,伤员们在呻吟着。来到英国炮舰上,才得知有许多炮弹中了该舰,舰长巴洛(Barlow)受轻伤,水兵们正忙于搭救落水的人们。军医正在采取应急措施。一艘英国海军的曳船横靠在起火的德和轮旁,营救船上的旅客。太古公司的大通轮虽被炸弹击中,但未起火,径直地向对岸驶去避难。下午至晚上来医院的一百名伤员中,有八十人需要住院治疗,医生们给三十人做了手术。

十二月五日は日曜日で、我々はちょうど教会で礼拝を行っていたところだったが、突然上空から飛行機の爆音が聞こえた(これは我々にとってはすでに日常茶飯事であった)。引き続いて連続的な爆撃音が聞こえたので、誰もがみな立ち上がった。我々は、何も恐ろしいと思う必要はないとから窓を開けるようにと語った。我々が引き続いて礼拝式を行っていると、十分ほど経ってまた、さらに猛烈な爆撃音を聞いた。教会から走り出してみると、怡和洋行の船が火災を起こしており、汽車の駅はもうもうと立つ黒煙に包まれていた。飛行機が飛び去るのを何とか待って、私は自動車の準備をさせたが、運転手はどこかへ逃げ去って行方がわからなかったので、やむを得ず、同僚に頼んで運転してもらった。爆撃から三十分が経っていたが、我々が現場に行ってみると、長江河岸の路上は、負傷した人々が続々と病院に運び込まれているところであった。誰しも今回の爆撃を予想していなかったので、損害の状況はきわめて甚大なものとなった。至る所に死体が転がり、負傷者たちは苦しみにあえいでいた。イギリスの砲艦の乗船したところ、同艦にも多数の砲弾が命中しており、艦長のバーロー(Barlow)が軽傷を負っていることがわかった。水兵たちは水中に投げ出された人々の救出に忙しく、軍医は応急処置に追われていた。一艘のイギリス海軍の曳き舟は炎上する徳和(Tuckwo)汽船に横付けして、船上の旅客を救出していた。太古公司(Tatung Company)の大汽船は、被弾はしたものの火災が起こらなかったので、すぐに対岸に向かって航行して避難した。午後から夕方にかけて病院を訪れた負傷者は百人いたが、そのうちの八十人は入院治療を必要とし、医師たちは三十人に及ぶ手術をおこなった。

  十二月五日以来,我们每天都极为兴奋和紧张。日本飞机连续三天进行了轰击。各条道路上都挤满了去乡下避难的难民。这悲惨的情景从我们的门前络绎而过。老老少少带着贴身用品,孩子们被大人们背着或抱着,逃往山区和郊外。

十二月五日以来、我々は毎日きわめて興奮し、かつ緊張もしていた。日本の飛行機が連続三日間にわたって爆撃を行った。各道路上は農村に避難する難民でいっぱいだった。悲惨な情景が我々の面前で絶え間なく続いていた。老いも若きも身の回りの品々を持って、子どもたちは大人たちが背負うか抱くかして山地や郊外に逃げていった。

  从十二月十日以来,占领芜湖的日军逐步增加,在铁路,江岸和太古公司等附近修筑了炮兵陈地,日本兵对未逃脱的中国士兵极为残酷,对于不感兴趣的市民也使用暴行。用机关枪向无辜的民船或小舟扫射。医院前漂着的小船上有三人负伤,其中一人身上中了十发子弹。

十二月十日以来、蕪湖を占領した日本軍は、次第にその数を増し、鉄道や、長江の河岸と太古公司の埠頭付近に砲兵陣地を築いた。日本兵は逃げ遅れた中国の兵士たちに対して極めて残酷な仕打ちをし、気に入らない市民に対しては暴力を用いた。罪なき民間の船や小舟に対しても機関銃掃射を加えた。病院の前に漂着した小舟には負傷した三人が乗船していたが、そのうちの一人は体に十発の銃弾を受けていた。

  十二月份,每天都是紧张和困难的。并且时常经受极大的危险。至今逃到我们医院的一千四百名难民(他们相信我们完全能够保护他们)还无事。但日本兵经常闯入医院,有时越墙而过。仅具备四百人收容能力的医院,竟来了一千四百人,必须依靠我们的机敏,忍耐和良心来考虑食住,卫生和秩序以及保证安全,维持生活等问题。

十二月は、毎日が緊張と困難の連続であった。その上、しばしば極めて大きな危険にもさらされていたが、今までのところ、私の病院に逃れてきた千四百名の難民(彼らは我々完全に保護されるものと信じていた)は無事であった。しかし、日本兵がしばしば病院に侵入してきたり、塀を乗り越えてくることがあった。また、わずか四百人しか収容能力のない病院に、千四百人も入り込んできているので、我々には彼らの食住や、衛生と秩序、並びに安全を保証し、生活を維持することなどの問題を解決する機敏さや、忍耐と良心などが必要とされていた。

  芜湖被占领后的一周里,日军对平民进行了肆意虐杀,闯入住宅大搞掠夺和破坏,我在中国住了二十年,从未经历过。中国士兵的手从不沾芜湖外国人的财产。日本兵却不然,他们对外国人的家进行了肆意掠夺。只有设看守的美国人的家无事。

日本軍は蕪湖を占領した後の一週間は、一般市民を勝手気儘に虐殺し、住宅に侵入しては略奪と破壊を行った。それは、二十人に及ぶ私の中国滞在で一度も経験したことのないものだった。中国の兵士は、蕪湖の外国人の財産には手を付けなかったが、日本兵はそうではなく、外国人の家の中に勝手に入り込んではほしいままの略奪を行った。ただし、見張りを付けていたアメリカ人の家だけは無事であった。

  这里未进行过激烈的战斗,也许芜湖与其它地方相比还不坏。但是日本兵在这里也是搜寻妇女进行侮辱。几天来,救护妇女成了我们的主要工作。只要听到有妇女藏匿在什么地方,我就毫不迟疑,驾车去寻觅。有几天,我甚至每天出去四次,载回年轻妇女和姑娘。即使我们的汽车从未尽过别的义务,这几个星期内工作的价值,也够本有余了。我认为此项工作很巨。同时我也不知道用什么方法来感谢阿尔坪先生和阿鲍先生。因为我所使用的汽车是他们送的。如果没有这辆汽车,我们就不能救出妇女,运输食品及必需物品。

ここでは激烈な戦闘は行われなかったので、蕪湖はその他の地方と比べてそれほど破壊されてはいない。だが、日本兵はここでも婦女を探しては凌辱していた。ここ数日は、婦女を救護することが我々の主要な仕事であった。婦女がある場所に隠れていると聞けば、我々は躊躇せず車に乗って出掛けて探し出したのであった。ある数日間など、私は一日に四回も出掛けて、若い女性たちを連れ帰ったのであった。たとえ我々の自動車が外の仕事に使えなかったとしても、この数週間は価値ある仕事ができたので、それだけでも十分だったと思っている。我々が使用しているこの自動車は、アルビオンとアーバー(Albion and Ann Arbour)の両氏が贈ってくれたものだが、彼らに対してはお礼の申し上げようもないほどに感謝している。もしもこの自動車がなかったならば、我々は女性たちを救出することも、食料品や生活必需品を運ぶこともできなかっただろう。

  我尽最大努力与日本军当局及最近来芜湖的日本领事馆进行接触。他们许诺了保护美国人财产。我尽一切可能与他们交涉,使他们约束士兵不再虐待中国平民,他们并确切表示他们已经禁止军队虐待中国人及奴役使用中国人。大多数军官也希望不要再发生这样的暴行。可是话虽如此,中国人,特别是妇女到街上去尚不安全。两天前,我们医院两个佣人试着出去,结果身上带的钱都被搜走,还迫使他们干苦役。我直接向指挥官提出抗议,他道了歉把钱退了回来。如果不是美国医院的佣人,那是绝对救不出来的。

私は日本軍当局および蕪湖の日本領事館に最近やって来た館員との接触に最大の努力を払った。彼らが米国人の財産を保護することを承諾したので、私は彼らと全力で交渉して、日本軍に対して、二度と中国の人民を虐待しないということや、すでに彼らが確実に表明している中国人の虐待の禁止や、中国人の奴隷的な使用の禁止を約束させた。大多数の将校もこのような暴行が再び発生しないことを希望したので、話はこのようにまとまったのだが、中国人、とくに女性が街に出ることは安全ではなかったのである。二日ほど前に、我々は病院の二人の使用人を試しに外出させたところ、所持していた金銭はすべて奪われ、その上に苦役を強いられるという結果になってしまった。私が直接に指揮官に対して抗議を申し入れたところ、彼は遺憾の念を表して金を返して寄こした。だがもしも、その二人がアメリカの病院の使用人でなかったならば、絶対に救出することはできなかったであろう。

  十二月十三日,日本兵把医院的一艘船上的美国旗投进水里,我马上用竹杆捞起,带着湿淋淋的旗子去见日军指挥官。我将此事件和其它若干事件报告给驻沪美国当局。日本陆海军及领事馆派人来谢了罪。自巴奈号事件发生以后,日本人对美国人非常注意,巴奈号负伤的美国人和中国人,有几人在本院治疗。

十二月十三日、日本兵が病院の所有する一隻の船に掲げられていたアメリカ国旗を水中に投げ捨てたので、私はすぐさまそれを旗竿で拾い上げて、ぬれてしずくの垂れるままの国旗を日本軍の指揮官に見せた。私がこの事件とその他の若干の事件を上海に駐在するアメリカ当局者に報告しようとしたところ、日本の陸海軍及び領事館が人を派遣して謝罪してきた。パネー号事件が発生してから以後は、日本人はアメリカ人に非常に気を遣うようになったのである。なお、パネー号で負傷したアメリカ人と中国人のうち数人がこの病院で治療を受けている。

太平间里已经积满了不少尸体,雇工不敢上街,无法埋葬,棺木也都用尽了,我们只得在医院内挖了一个大坑,埋葬了二十具尸体。
                        一九三七年十二月三十日  于芜湖”

死体置き場の中はすでに少なからぬ死体でいっぱいであったが、雇い人たちも街に出ようとはしないし、埋葬の方法もない上に、棺桶の材料も使い尽くしていたので、我々はやむを得ず病院内に大きな穴を掘って二十の死体を埋葬するしかなかった。
一九三七年十二月三十日 蕪湖にて

 

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