南京事件・第五章


第 五 章 华 北 的 恐 怖

以上各章大部分叙述的是一九三七年十二月十二,十三的两天日军占领南京,以及从当时至一九三八年二月九日前后,这个期间的各种暴行。我能够用各种方法叙述出这些情况是因为南京是日军的主要目标,而且有相当数量的各国侨民(其中包括各国大使官人员)始终未离开南京,所以能够相当详细,慎重地记录了有关的各种暴行事件。

华北…中国中北部、黄河の中流から下流にかけての地域で、現在の河北省・山西省・山東省・河南省の四省にわたる。

 

章 華 北 の 恐 怖

次の各章の大半は、一九三七年十二月十二、十三の両日に、日本軍が南京を占領した時、及びその後の一九三八年二月九日前後までの期間に行った各種の暴行を述べたのものである。私がこのように各種の方法によってこれらの状況を述べたのは、南京が日本軍の主要な目標であったことに加えて、相当数の各国の居留民(その中には各国大使館員も含む)が最後まで南京を離れずにいたので、それによって各種の暴力事件に関するかなり詳細で、慎重な記録が出来たのである。

 

然而,因此不能认为南京发生的暴行事件是一个例外。从去年夏天※卢沟桥事变以来,在很多地方普遍发生了这样伤害平民的暴行事件。我不可能把各地发生的这种事件一一写出,因为这样写法,绝非本书篇幅所能容纳。所以我还是按照以上几章的写法,仅把各中心地点外国人亲身经历的真实记录作为本章的主要体材。

卢沟桥事变…盧溝橋事件。中国では七七事変と呼ぶ。1937年7月7日、北京の南西郊外の盧溝橋付近で、中国人による発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した事件で、日中戦争のきっかけとなった。日本軍は、その6年前に鉄道爆破の謀略事件(=柳条湖事件)を起こし、中国への侵略を開始して、傀儡政権の「満州国」を建設していたので、中国側はこれも日本軍の挑発だと主張している。

 

しかし、だからといって、南京で発生した暴力事件を一つの例外的な事件としてとらえるわけにはいかない。昨年夏の盧溝橋事件以来、中国人民を傷つけるこのような暴力事件は多くの地域で普遍的に発生していたのである。私には各地で発生したこの種の事件を一つ一つ書き出すことは出来ないし、このような書き方では文章が長くなりすぎて本書には収まりきらないであろう。したがって、私は下記の数章のような書き方によって、それぞれの中心地点に於ける外国人が身を以て経験した真実の記録だけを本書の主要な題材にするつもりである。

 

这些外国人没有一位不是在中国侨民多年,其中还有曾在日本长期侨居的。他们在信中记录的事实绝不是为了发表,只是写给与自己关系密切的人们传阅。因此,这些无偏颇的见闻录描绘出一幅和谐的画面,同时字里行间活跃着公正,切实的叙述。正是不徇私情的观点成为以下报道的基调。考虑到他们中的多数至今仍然在当地从事着救济工作,万一透露了姓名有碍于他们继续工作,故省略了所有的姓名。

 これらの外国人で、在中居留民として長い年月を過ごしてこなかった人は一人もいなかったし、その中には、かつて日本で長期にわたって居住した経験のある人もいた。彼らが手紙の中で記録した事実は、決して発表するためのものではなく、自分と密接な関係がある人たちに回し読みしてもらうためだけに書いたものだった。それゆえ、これらの片寄りのない見聞録は、一幅の調和の整った画面を描き出していると同時に、文章の行間には公正さがあふれており、実態に合った叙述がなされている。すなわち、私情にとらわれない観点が報告の基調をなしているのである。なお、彼らの多くは、今なお現地での仕事に従事していることを考慮して、その名前を明らかにすることで、万一でも彼らの仕事の継続に障害があってはならないと思い、それぞれの人の姓名は省略した。

 

一九三一年九月十八日,日军初次袭击沈阳的枪声,发展到所谓“※满洲国”的成立和※东北四省沦陷。一九三二年至三七年,日军对华北,特别是对※平津一带采取逐步逼迫的方法。在※北平近郊暴发了一九三七年七月七日的※卢沟桥事件,揭开了日军向华北大举进攻的序幕。日军每天向河北和※察哈尔两省注入大量兵力,至十一月末已达到三十万人左右。日军占领※冀,察两省大部后,又向山西,山东两省侵入。日军一面尽快把北平和※天津抓到手,另一面开始采取进攻北平以南八十英里的河北省※保定的战略。

沈阳…遼寧省の省都で現在の瀋陽市。日露戦争の会戦地で郊外の柳条湖は満州事変の勃発地。奉天と呼ばれた時期もある。

洲国…1932年から1945年の間、現在の中国東北部の遼寧省、吉林省、黒竜江省にまたがる地域に日本の軍部が作った傀儡国家。国首を執政、国号を満州国、国旗を新五色旗、年号を大同とする新国家の形態をとり、執政(のちに皇帝)に清朝の廃帝、溥儀をあて、首都を長春(改称して新京)に置いた。溥儀から関東軍司令官に宛てた書簡には、満州国が傀儡国家であることが如実に表れている。その内容は、(1)関東軍が必要とする一切の軍事施設を満州国が提供すること、(2)日本が満州の一切の鉄道を管理し、また必要な鉄道を敷設すること、(3)満州国政府の全部門に日本人が官吏として勤務し、その任免権は関東軍司令官にあること、というものであった。

北四省…遼寧省・吉林省・黒竜江省・内モンゴル自治区。

平津一带日中戦争の初期における戦闘地。日本軍は、盧溝橋事件の停戦協定の締結後、中国東北部に駐屯する部隊を増強した。中国軍もこれに強く抵抗したので両軍は緊張状態にあった。このような状況にあり、1937年7月に弘安門事件が発生したのをきっかけに、日本軍は総攻撃を開始し平津を占領した後に本格的な戦争に突入した。

北平…現在の北京市。

察哈尔…察哈爾(チャハール)。旧省名で、1952年に河北省と山西省に編入された。

冀、察两省…「」は河北省の別名、「」は前出の察哈尔

天津…河北省東部の河港都市。海河支流の合流点にある水陸交通の要衝。

保定…河北省中部の都市。交通路の要所で、農産物の集散地。

 

一九三一年九月十八日、日本軍が初めて瀋陽を攻撃した時の銃声が、いわゆる「満州国」の成立と、東北四省の陥落にまで突き進んだのである。一九三二年から三七年にかけて、日本軍は華北、とくに平津一帯に対して、徐々に圧力を加える政策を取るようになった。一九三七年七月七日の盧溝橋事件が北京の近郊で勃発するに及んで、日本軍が華北に大挙して進攻する序幕が切って落とされた。日本軍は毎日、河北と察哈爾の両省に大量の兵力を注入し、十一月末にはすでに三十万人前後に達していた。日本軍は、両省の大部分を占領した後に、山西と山東の両省に進攻した。その傍ら日本軍は、北京と天津を手に入れるや、さらには、北京以南八十マイルにある河北省保定市の攻略をも開始した。

 

以下是一位中立国的外国人写的信:叙述了九月上旬至十一月中旬山西省的情况。

 次の手紙は、中立国のある外国人が書いたもので、内容は九月の上旬から十一月の中旬にかけての山西省の状況を述べている。

 

××兄:我于十月四日离保定赴山西※平定。当时保定已遭炮击。但日军在两星期后,才开始占领该城。我和几位朋友到平定后住在博爱传教会内,大家决心不走,等待着日军攻城。

 「〇〇兄へ、私は十月四日に保定市を離れて山西省の平定市に向かった。その頃、保定はすでに砲撃を受けていたが、日本軍が平定の占領を開始したのはその二週間後であった。私は数名の友人たちと平定に到着してからは、博愛伝道教会に滞在して、誰もそこから移動せずに日本軍の侵攻を待ち受けていた。

 

十月二十三日,当地与山西省省城※太原的交通断绝了。二十五日,日军轰炸机从早五时至下午五时在上空盘旋了一整天。但中国军队都驻扎在城外,城内未遭轰炸。有几枚炸弹命中了城外两英里远的兵营,五英里远的车站也遭到轰炸。当天傍晚,中国军队撤离了平定,警员和公务员们也开始到处逃亡。二十六日,(星期四)凌晨,我们听到枪炮声。清晨看到了硝烟弥漫,尘土飞扬。星期五下午四时,我透过窗子望见了远处城墙上飘着的※太阳旗,接着,日军拥入城内。从此我们开始了在日军统治下的生活。我们住的院里挂起了美国国旗,屋顶上也升起了大幅的美国国旗。

太原…山西省の省都の太原市。黄河の支流、汾河の東岸にあり、製鉄や機械工業が盛んな地域。

太阳旗…日章旗。日の丸の旗で、中国人民には侵略の象徴として受け止められていた。

 

十月二十三日、当地と山西省の省都の太原市との交通が遮断された。二十五日、日本軍の爆撃機が午前五時より午後五時まで一日中上空を旋回していた。しかし、中国軍は全て城外に駐屯していたので、城内が爆撃されることはなかった。何発かの爆弾が城外二マイルほどの兵営に命中し、五マイルほど離れた停車場も爆撃に遭った。当日の夕方には、中国軍が平定から撤退し、警察官や公務員たちも逃亡を開始した。二十六日(木)未明に、我々は銃声を聞いた。早朝には、硝煙が立ちこめ土ぼこりが舞い上がるのを見た。金曜日の午後四時に、私は窓を通して遠く離れた城壁の上に日章旗が翻るのを見たが、それに引き続いて日本軍が城内に進攻するのも見えた。この時から我々は、日本軍の統治下に置かれる生活をすることになったのである。我々の住んでいる庭には米国国旗、屋根の上にも大きな米国国旗が高々と掲げられていた。

 

无论战争是哪个国家挑起的,战争终究是战争。’我在夏日的一天,读了《※飘》,回忆起在七十年以前※祖国发生的形形色色的事件。我们的院内云集着一千至一千五百名中国难民。取胜而炫耀的军队只要占领一个地方,最初的一个星期都充满难以形容的罪恶。难民中的很多姑娘,年轻的女人都躲藏起来。

…アメリカの作家、マーガレット・ミッチェルの長編小説『風と共に去りぬ』を指す。「」は風に漂う意。

祖国发生的形形色色的事件…1861~1865年に起こったアメリカの内戦、南北戦争前後の様々な事件をいう。

 

もちろん、‘争いごとというものは、どの国が挑発したものであれ、争いごとは最後には戦争に至る’ものである。私はある夏の日に、『風と共に去りぬ』を読み終えて、七十年前に祖国で起きた様々な事件を追憶した。我々の庭内には千から千五百名に達する中国難民が集まっていた。戦いに勝利してそれを誇示する軍隊が一つの地域でも占領したならば、最初の一週間ぐらいは、言葉では言い表せないほどの罪悪が充ち満ちるものである。難民の中の多くの未婚女性や年若い女たちは、身を隠さなければならなかった。

 

举一买例就能说明日军是何等残酷地搜索妇女的。某家的母亲病得不能动弹,把女儿藏在非常小的木柜里。日本兵为找年轻姑娘,夜里也要来许多多次,问姑娘到哪去了?姑娘在木柜里不能自由地呼吸,又不能吃喝,竟在里面熬磨了两天。后来,从缝隙间看到家里的人把她送进教会内的收容所。几百名妇女逃进附近的矿山里,两天没有食物,忍受着饥饿。其中的二百人被美国护士救出,剩下的被日军发现,带走了。我们教会在城内三处,城外一处设立了收容所。其中一处不是教会的财产,不许可挂美国旗。因此有两个日本兵越过墙,绑架走两名姑娘。幸亏先生赶去时,日本兵还没对姑娘们下手,平安地救了回来。最初几天,由外国人值班看守收容所,到了晚上,我家里睡着七十余名姑娘和妇女。其它的外国人家里也同样满员。你可以想象,我们夜里既不能解衣而卧,也不能安然入眠。

 日本軍がどんなにむきになって婦女を捜しだそうとしたかは、一つの実例を挙げるだけでもそれがわかる。ある家では、母親が病気で体を動かすことがままならなかったので、女の子を非常に小さなタンスの中に隠した。日本兵は、夜になると若い女性を探しに何度もやって来ては、女をどこにやったかと尋ねるのだった。その女の子は、タンスの中で自由に息も出来ず飲食も摂れなかったが、苦しみに耐えながら二日間をその中で過ごした。その後に隙を見て、家族が教会内の収容所に彼女を送ってきた。何百人かの女性たちが付近の鉱山の中に逃げ込んで、二日間は食べるものもなく飢餓に耐えていた。その中の二百人は、アメリカの看護師に救出されたが、残りの者たちは、日本軍に見つかって連れ去ってしまった。我々の教会には、城内に三か所、城外に一か所の収容所があった。その中の一つは教会の財産でなかったので、アメリカの国旗を掲げることは許可されなかった。そのせいで、二人の日本兵が塀を乗り越えてきて、二人の若い女性を拉致していった。C氏が急行した時は、幸いなことに日本兵がまだ彼女たちに手を付けていなかったので、無事に救出して連れ帰った。最初の数日間は、外国人が当番で収容所の監視に当たったので、夜のわが家には七十名あまりの未婚女性と婦女子が寝ていた。その他の外国人の家の中も同様に満員であった。我々が夜の間も服を脱がずに横にならざるを得ず、安眠できなかったことをあなたには想像することも出来ないでしょう。

 

大军过后,平定成了日军的粮站和兵站,有很多部队来往。从前钱归来的部队放假几天,疯狂地进行强奸和掠夺。兵士和马匹侵入了民宅,屋内中意的物品任意掠夺。家具,门窗,桌子等都成了取暖的燃料。我去现场察看了几间民房,除墙和地板外,未剩任何东西。第一批部队回到城内,休息四天。到处乱翻书籍和文件,掠夺中意的物品,随心所欲地杀人。无论是店铺还是住宅的物品全部被抢光。要是剩下了什么,一定也会被下次归来的士兵们抢走。如有人穿的衣服象军服,都会遭枪杀。我知道就有一人因穿了一条灰裤子被日军杀害。被日军拉去的民夫们如果判断不出日本兵的意图就会马上丧命。还有无数这样的实例。难道这是战争吗?

 

大軍の通過後に、平定は日本軍の食料と物資の供給基地となり、多くの部隊が往き来するようになった。前線から帰還した部隊は、数日の休暇中に狂ったように強姦と略奪を行った。兵士と軍馬は民家に侵入し、屋内にある気に入った物品は何でも略奪した。家具、戸や窓、机などはみな、暖を取るための燃料にされた。私も現場に出掛けて何軒かの民家を視察したが、壁と床を除いては何の品物も残されていなかった。第一陣の部隊が城内に戻ってきたが、休暇中の四日間は、乱雑に書籍や文献をひっくり返し、気に入った物品は略奪し、やりたい放題に殺人を行った。店舗であれ住宅であれ物品はすべて強奪され、たとい何かが残っていたにしても、必ず次に戻ってきた部隊によって奪い尽くされたのだった。もしも軍服に似た衣服を着ていたならば、みな銃殺の憂き目に遭った。私は灰色のズボンを穿いた一人の男性が日本軍に殺害されたことを知っている。日本軍に人夫として拉致された人たちも、日本兵が意図していることを判断できなければ、たちどころにその場で命を奪われたのであった。このような実例は無数にあった。まさか、これが戦争というものではないだろう。

 

日军霸占了一切食物,粮食问题渐渐严重化。很多难民没有粮食和金钱。教会收容所的几百名难民的生活是由日本方面控制的,中国人组织的委员会维持的。有钱人要得到需要的物品也感到困难。猪,羊,鸡等家畜都被日本兵抢去吃了。因此,我们每天不得不尽量节制肉类的摄取量。水果也都被日本兵抢走。幸亏教会院里种植着大量的西红柿,只有蔬菜还够食用的。

 日本軍が一切の食物を独占したので、食糧問題が次第に深刻になってきた。多くの難民は食料も金銭も所持していなかった。教会の収容所の数百人の難民の生活は、日本側が管理し中国人が組織する委員会が維持していた。金銭に余裕がある人も必要な品物を手に入れるのに困難を感じていた。豚、羊、鶏などの家畜もみな日本兵に略奪されて食われた。これによって、我々は毎日の肉類の摂取量を可能な限り制限せざるを得なくなった。果物もみな日本兵に略奪されたが、幸いなことに教会の中には大量のトマトが植えてあったので、野菜だけは十分に食べることが出来た。

 

以上是过去几周我经历的人间地狱。当然范围狭小,只不过是揭示了诸多事件的一部分。当今在中国国土上,持续地发生着使人难以想象的类似事件。但是,我个人没感到什么危险。先生最早与日本军官结下了友谊。我认识的几位优秀的日本人中,也有去过美国留学的。部队里有好的,也有坏的,不能一概而论。重要的看对方是什么样的人格。

一九三七年十月十七日 于北平”

 

以上が過去数週間に私が経験した人間地獄である。当然のことながらその範囲も狭く、諸々の事件の一部分を取り上げたに過ぎないが、現在の中国本土では、類似の事件が想像を絶するほど連続的に発生し続けている。しかし、私個人としては、何らの危険も感じなかった。C氏はいち早く日本軍の将校と友好関係を結んでいたし、私の知る数人の優秀な日本人の中には、アメリカに留学した経験がある者もいた。部隊の中には良い人物と悪い人物とがいるので、一律に論じることは出来ない。重要なことは、相手がどのような人格であるかを見抜くことである。

一九三七年十月十七日 北京に於いて」

 

以下的信叙述了在保定一带发生的事件。

我在此信的开始,就要向你们说明,日军占领保定以后,我为让我的家属们阅读,每天写日记,题名《见闻录》,有数起事件未写入日记中,想在这封信里加以叙述和批评。

 次の手紙は保定一帯で発生した事件を述べたものである。

「私がこの手紙の冒頭で、あなた方に対して説明しなければならないことは、日本軍が保定を占領してから、私は自分の家族に読んでもらうために、毎日日記を書いて「見聞録」と題したが、数種の事件については日記に書かなかったので、この手紙の中にその内容を加えることで、皆さんのご批評をいただきたいと思う。

 

下面的几个具体事件是我了解得最真实,最详细的。这里的统治权更迭以来,至今已经七十天了。真正的战场和白刃化的混乱场面逐渐远离了我们。实际上,最近两个月在我们周围的六十英里内已没有大规模的战斗。

 次に述べる数件の具体的事件は、私が最もその真実を詳細に認識しているものである。ここの統治権が(中国から日本に。訳者補注)代わって以来、すでに七十日が経過した。真の戦場と白兵戦的な混乱の場面から、我々は次第に遠く離れる状況になった。実際のところ、この二ヶ月間は我々の周囲六十マイル以内の大規模な戦闘はなかった。

 

最近七周来,驻扎在当地的日军的兵力很少,大约在二千人以内,而且兵力的转移也不明显。宪兵队负责维持治安。日军占领保定不满一个月,城里已经组织起相当数量的警察队,至今负责着维持治安。城内的居民看到与和平时期同样的安全。然而,发生类似以下的事件是不足为奇的。三个日本兵闯入一户有钱人家,主人和仆人都已逃走。日本兵任意地挑选昂贵的古董和书画带走了。

 

最近の七週間、当地に駐屯した日本軍の兵力は少なく、およそ二千人以内で、しかもその兵力の移動も顕著ではなかった。憲兵隊は治安の維持に責任を持ち、日本軍が保定を占領して一か月にもならないうちに、すでに城内には相当数の警察隊が組織されており、現在でも治安の維持に責任を負っているので、城内の居住民は、平和な時代と同じような安心感を抱いていた。しかしながら、類似の事件がまれではないと思われる次のような事件が発生した。三人の日本兵が資産家の家に押し入ったので、その家の主人と使用人とが逃げ出してしまった。日本兵はそれを幸いに高価な骨董品や書画を選んで持ち去ったのである。

 

本周初,我派遣一个职员去以前组织※合作社的事务员家。日本兵侵占着村里的几间民房。夜晚到处敲村民的门,若是不开就把门捣毁。昨晚日本兵用手电筒到处搜索妇女。一个老百姓因公不出妇女,被日本兵毒打致死。

合作社…協同組合。人民の生産を発展させ生活を改善するために、自由意志によって結成された互助組織で、1959年に成立した人民公社に発展的に解消された。

今週の初め、私は以前に組織された合作社の事務員の所へ一人の職員を派遣した。(その言によれば。訳者注)日本兵は、村の何軒かの民家を占領し、夜になると村民の家の門をたたいて、もし開かなければ門をたたき壊して入り込んできたという。前の晩には、日本兵が懐中電灯を照らして女たちを探し回っていたし、ある人物は女を差し出さなかったので、日本兵にひどく殴られて殺されてしまったそうだ。

 

普通人家冬季使用的燃料是树叶,干草,柴禾,很少用劈柴。日本兵无暇顾及地到处寻劈柴,大举烤火。劈柴烧光后就烧门窗,家具,农具甚至房梁。今天一位妇女在收容所里哭着说,她的织布机被日本兵抢去焚烧了。她是靠织布来谋生的。这院子前面的半西洋式的洋楼是教会的附属建筑,建于三十年前,镶板的门窗等非常精致。前天日本兵拆掉了两扇窗门,其余的几扇因螺丝生锈未能拆下来。捣毁后搬走了。见此状况,我尽快地把剩下的窗门扭下搬到我的院内。昨天又有几名日本兵越墙闯入我家的院内。当我发现时,他们已经伐到了直径五英寸的一棵树。当我和朋友注意他们时,他们似乎也觉得有点不好意思。

 普通の家で冬期に使用する燃料は、木の葉、干し草、わらの類いなどで、薪を用いることは少ない。だが、日本兵は何の遠慮もなく至る所で薪を集めては、大規模にたき火をしていた。その上、薪がなくなると門扉や窓枠、家具、農具、甚だしきは、家屋のはりまでも燃やし尽くした。今日は、ある女性が機織り機を日本兵に奪われて燃やされてしまったと収容所で泣きながら語っていた。彼女は機織りで生計を立てていたのである。この中庭の前にある半西洋式の洋館は、教会の付属建築物で、三十年前に建てられたものだが、象眼で縁取りされた門扉や窓枠なども精緻に出来ていた。ところが、一昨日、日本兵がやって来て二つの門扉と窓枠の両方をはずしたが、残りの窓扉はボルトがさび付いて取れなかったので、たたき壊して持ち去った。この状況を見て、すぐさま私は残された窓扉をはずして庭の中に運び込んだ。昨日はまた、数名の日本兵が塀を乗り越えてわが家の庭の中に入り込んで来た。私が見つけたその時には、彼らはすでに直径五インチの樹木を切り倒していた。私が友人と一緒に注意すると、彼らはきまり悪そうな様子を見せた。

 

我没有把这些事情加以措置,使之逐渐发展达到高潮。只不过是想记录这场战争结果的一个片断。我还听到一个相当确切的事件。离我家不远的南面有三户人家,三位主人都因回答家里的女人逃难去了而遭殴打。其中一人打掉了牙,一人打伤腿,不能走动。

 

私はこれらの事件を何らかの措置を加えて述べようとするものではなく、こうした状況が次第に高まりを見せているので、この場所に於ける戦争の結果の一断面を記録しようとしているだけなのである。私はかなり確実な事件を耳にした。私の家から南の遠くない所に三軒の人家があったが、三つの家とも、主人が家の女たちを逃がしたと答えたので、みな日本兵に殴打され、そのうちの一人は歯を折られ、また一人は股に打撲傷を負って歩くことが出来なくなった。

 

我以上叙述的事件难道是战争不可避免的后果吗?战争或许会使这现象更加恶化。可是,日本人不是宣称过,这一次战争只为解决‘华北地方事件’吗?至今为止,尚未正式宣战。但无论如何,战争仍继续进行,‘中国问题必须根本解决’了。而这据说‘仅属两国之间的事’。第三者不得加以干涉。任何解决的办法必须依据‘停止反日宣传及反日行动’,以及‘共同防共’的谅解为基础。日本现在是用了多么杰出的方法来使中国民众获得彻底的谅解啊!难道日本军队方面对于心理学 —- 不管是理论上的或实际上的,完全不准加以研究吗?

 私が以上に述べた事件は、戦争においては避けることのできない結果なのだろうか? あるいは戦争がこの現象をさらに悪化させたのかも知れない。だが、日本人は, このたびの戦争は、ただ「華北地方の事件」を解決するためだと言っているではないか。現在に至るまでなお、正式な宣戦布告さえもない。いずれにしても、「中国問題は根本的に解決しなければならない」ということで、戦争はまだ継続中である。「単なる両国間の事件にすぎない」とされているので、第三者がこれに干渉を加えることはできない。日本側は、いかなる解決の方法であっても、「反日宣伝と反日行動の停止」および「共同防共」の了解が前提でなければならないと主張するし、さまざまな驚くべき方法を用いて、中国の民衆にそれを徹底的に納得させようとしている。まさか日本軍は、中国人民の心理に関して理論上も実際上も、全く研究をしていないというわけでもないだろう。

 

我绝没有存心用这样的语言来诅咒日本民族全体。我们所见所闻,有许多日本军官和士兵具有善良的同情心和人类的美德。我认识的日军军人对我说:‘我自己并不喜欢战争,可是我们必须服从命令。’这是真实,理智的言辞。他们受某种制度的束缚参加了战争,并且完全丧失了自由。究竟为什么参加战争?其结果如何?全然不知道。上帝啊!伶悯他们吧!伶悯这个仍为战争制度的恶症纠缠着的旧世界吧!我们基督教徒难道还是毫无办法来挽救战争的疯狂吗?我们究竟要做出多少努力?

 私は決してこのような言葉で日本民族全体を呪う心づもりは全くない。私は多くの日本人将校や兵士が善良で同情心と人類的な美徳を備えていると見聞きしている。私の知る日本の軍人が私に向かって、「私自身が戦争を好むわけではないが、我々は命令に従わなければならないのだ」と語ったが、これこそが真実で理知的な言葉であった。彼らはある種の制度的な束縛によって戦争に参加しなければならず、また、自由を完全に奪われており、いったい何のために戦争に参加するのか、その結果が何なのかについても、全く知らなかったのである。神よ、彼らを憐れみ給え!戦争を起こすようなこの旧態依然たる制度的に悪しきものがまとわりついた世界を憐れみ給え。我らキリスト教徒でもやはり、中国人民を戦争の狂気から救い出す方法があるとはまさか言えないだろう。我々は、いったいどれほどの努力をすればいいのだろうか?

这封信是写给我亲密朋友的,我希望你们读后,不会因此燃起仇恨的火焰。如果您看了我的信,在听到虚伪宣传时有助于仔细研究,进行反驳。为此我感到幸运。

一九三七年十二月十日 于保定

 この手紙は私の親しい友人に宛てて書いたものである。私はあなた方がこれを読んだからといって、憎悪の炎を起こさずにいて下さることを希望する。ただ、この手紙を読んだことによって、(日本軍の)虚偽の宣伝を耳にしても、細かく検討してそれに反駁する根拠となれば幸いである。

一九三七年十二月十日 保定に於いて

 

以下时抄录一位美国老牧师向上海总会写的题为《一九三八年二月的华北现状》的机密报告:

二月十六日平津《泰晤士报》登载了该报主笔潘纳尔先生的有关《空前的混乱和无政府状态》一文,非常详细,具体地描写了天津地区一带的现状。他还在《※远东事件》一月号上登载了华北无政府状态的一文。更正确地报道了华北的现状。与前篇不同之处是借爱尔兰人的表达真相的说法,可以说在若干地方这‘无政府状态’逐渐开始组织起来。换言,凡是在中国政府撤退后的地方(事实上仅在铁路沿线附近及日军驻扎的少数城镇)一些取而代之的新势力开始抬头。这些新势力大体上分为以下三种:第一,只顾自己利益的※土匪。第二,山东再起的※红枪会等社会思想的团体,活跃在山东一带。还有一部分在※冀南。第三,中国的游击队,其中有※八路军的组织,也有与八路军没关系的。这三种势力在一致抗日的旗帜下联合起来了。然而第一种势力的土匪势力常被第二,第三种势力压迫和消灭。第三种势力则有吸收或巩固第二种势力的希望。

平津日中戦争の初期における戦闘地。日本軍は、盧溝橋事件の停戦協定の締結後、中国東北部に駐屯する部隊を増強した。中国軍もこれに強く抵抗したので両軍は緊張状態にあった。このような状況にあり、1937年7月に弘安門事件が発生したのをきっかけに、日本軍は総攻撃を開始し平津を占領した後に本格的な戦争に突入した。

远东事件…日本軍の侵略行為に批判的な報道機関の一つ「オリエンタル・アフェアーズ」の中国名。主筆兼評論家として、イギリス人のヘンリー・ウッドが知られる。他の批判的な報道機関として、「チャイナウィークリー・レビュー」、「上海イブニングポスト」などがあった。

冀南…河北省南部。「冀」は河北省の別称。

土匪…土着の匪賊。徒党を組んでその土地に住み着いて、略奪や殺人などを行う集団。

红枪会中国近代の非合法の自衛武装集団で、華北農村軍閥搾取などに対抗して組織された農民の組織であったが、抗日戦争八路軍などに吸収された。

八路军…国民革命軍第八路軍。中国共産党の軍事組織で、1937年8月の第二次国共合作(中国国民党と中国共産党が結んだ協力関係)によって、抗日戦の主力組織となった。

 

次の抄録は、一人のアメリカの老牧師が上海の総会に於いて、「一九三八年二月の河北の現状」と題して行った機密報告である。

「二月十六日、平津『タイムズ紙』は、同紙主筆のパナール氏の“空前の混乱と無政府状態”という一文を掲載した。それは天津地区一帯の現状を非常に詳細に、かつ具体的に描写している。彼は『オリエンタル・アフェアーズ』一月号に華北が無政府状態であるという一文を載せた。さらに、正確に華北の現状を報道した。これが前者と異なっている点は、アイルランド人が真相を述べたという表現を借用して、若干の地方において、この‘無政府状態’によって次第に抗日組織が作られ始めたことを述べている点である。言い換えれば、中国政府が撤退した後の地域(事実上は、わずかに鉄道沿線の付近および日本軍が駐屯する少数の都市や町のみであった)に若干の代替新勢力が台頭し始めたということである。これらの新勢力は、およそ次の三種に分けられる。第一は、自己の利益のみに気を配る土匪。第二は、山東で再起した紅槍会などの社会思想団体で、山東一帯で活躍したが、その一部は河北省南部にも存在した。第三は、中国の遊撃隊で、その中には八路軍の組織もあれば、八路軍とは無関係の組織もあった。この三つの勢力は、一致して抗日の旗幟のもとに連合して蜂起した。但し、第一の土匪の勢力は常に第二とされ、第三の勢力は、その第二の勢力を抑圧し消滅させたり、吸収して強固なものにすることを望んだのだった。

 

现在这三种势力很大地增加了占领区日军的困难。一般民众赞扬他们的行动,出现了许多※传奇人物,成为了※新三国演义的英雄。※平汉铁路沿线的日军恐慌起来,保定的日军晚上不敢远离兵营。这样就消除了民众的不安感。定县的驻军经过三次袭击被歼灭。

传奇人物…伝記に残るような人物。朱徳や林彪、および毛沢東などのことを指すか。

新三国演义的英雄…羅貫中の『三国志演義』で描かれた関羽や張飛のような英雄や、諸葛亮のような戦略家に比すべき伝記に残るような人物をいう。

平汉铁路…平漢鉄道。北平(=北京)市付近に敷設されていた近距離鉄道。

 

現在この第三の勢力が占領区の日本軍の困難を大きく増加させている。一般の民衆も彼らの行動を賞賛し、彼らの中から伝記に残る多くの人物が現れ、新三国志演義の英雄となった。平漢鉄道の沿線の日本軍はこれに恐慌をきたし、保定の日本軍は夕方になると敢えて兵営を遠く離れることがなくなった。このような状態はすぐさま民衆の不安感を取り除くものとなった。定県の(日本の)駐屯軍は三回の襲撃によって殲滅された。

 

日军遭袭击后必然向附近居民采取报复手段。因此连续发生了最悲惨的事件。定县的袭击事件之后,日军从杂货店的仓库里取出汽油烧死了很多老百姓。

 日本軍は、襲撃に遭うと必ず付近の住民に対して報復手段をとったので、これによって最も悲惨な事件が次々に発生した。定県の襲撃事件の後でも、日本軍は雑貨店の倉庫からガソリンを盗み出して多くの人民を焼き殺したのだった。

 

我去北平的几天前,来了一位山东从事传教的教会团体的成员。据博士讲,在他们周围发生许多暴行完全与从南京方面传来的情况相同。侮辱妇女的事件不仅限于屋内和院内,在街头也肆无忌惮地发生。一位外国牧师因干预了此事遭到日本一公务员的殴打。在山西方面,十一月份日军的进攻渐渐不频繁了,先头部队仅是在离※太谷三十英里的地方出没。因为两侧的山地被半独立的游击队以及直属八路军的部队所控制,日军经常受到袭击。陷入长期的不安和恐慌状态之中。但是,这也使日军对作战区域内可怜的老百姓,时时采取了报复行动。

太谷…太谷県。山西省晋中市にある県。太原盆地の東南にあり、西北は平坦だが、東部および南部は険しい山地になっている。

 

私が北京を去る数日前に、山東で伝道に従事していた教会団体のメンバーが到着したが、P博士の弁によれば、彼らの周囲に発生した多くの暴力事件は、南京方面から伝わってきた状況とまったく同じであり、婦女を辱める事件は、屋内や庭内のみならず、街頭でも何らの憚りもなく発生したというのである。ある外国人牧師などは、この場面に拘わったことで日本の公務員から殴打されたりした。山西方面では、十一月には日本軍の侵攻も次第に頻繁ではなくなり、戦闘部隊が太谷から三十マイル離れた地域に出没したに過ぎなかった。両岸の山地は半独立的な遊撃隊と八路軍直属の部隊の統制下にあったので、日本軍は常にその襲撃を受けて長期的な不安と恐慌状態に陥っていた。だが、日本軍はその作戦区域内の憐れむべき人民に対しては、時々報復行動をとっていた。

 

日本兵不懂煤炭的使用方法,因此众多中国人的财产蒙受了不必要的损失。日本兵不知道除木料以外的燃料,大量的煤炭被放弃不去利用。他们到各乡村收集木料,蒙不考虑木料的来源。所有的门窗,木柱,木筏,桌子,长凳,农具以及其它各种木料,都被日军抢去,当作煮饭,取暖的燃料。保定城门口,整天整夜都燃着大火堆,浪费极大。无论是什么木料都当作合适的烧柴。

 

日本兵は、石炭を使用する方法を理解していなかったので、多くの中国人の財産は不必要な損失を被ったのだった。日本兵は木材以外の燃料は知らず、大量の石炭が放棄されて利用されることはなかった。彼らは各農村に出掛けては木材を集めたが、その木材の出所については一顧だにしなかった。全ての門扉や窓、木の柱、いかだ、テーブル、床几、農具およびその他の各種木工製品は、日本軍に略奪されて、炊飯や暖をとるための燃料とされてしまった。保定の城門の入り口では、毎日毎夜燃やされ続けて大火はうずたかく燃え上がり、その浪費は甚だしいものであった。どんなものでも木材で出来てさえいれば、絶好の薪として用いられたのであった。

 

我离开北平的前一天,听到了极为残酷的事件。八路军某部队突然出现在保定的铁路上,召集附近的村民破坏了铁路。这起破坏工作非常巧妙,使得※石家庄至北京之间整整六天不能通车。(我是从法文的北京记事报纸上看到就有关该事件报道的。但※新政府的外文机关报,在二天前还否认了该事件)。日军为修复铁路向发事地区派遣了相当多的兵力。他们首先搜索了一个村庄,最初找不出特别的目标,不久以后他们却围捕并枪毙了二百多男子。闻讯受惊吓的老百姓们赶快跑回了家。日军再次抓走了六十名强壮的青年。据说,日军要处他们火刑。因准备有些混乱,一些青年寻机逃跑,日本兵抓走老人当替代,推进逃跑青年的坑里,处了火刑。

石家庄…石家荘。河北省の省都。

新政府…満州国政府をいうか。

 

私は、北京を去る一日前に、極めて残酷な事件を耳にした。八路軍の某部隊が突然保定近くの鉄道の線路上に現れて、付近の村民を集めて線路を破壊した。この破壊工作は非常に巧妙であったので、石家荘から北京の間はまるまる六日間は列車を動かすことが出来なかった。(この事件の報道に関して、私はフランス語の「北京記事報」の紙上で読んだのだが、新政府の外国語の機関紙では、二日前にその事件を否定していた)。日本軍は鉄道を修復するためにその地区に相当数の兵力を派遣した。彼らはまず一つの村を捜索しても、最初は特別な標的も見つからなかったので引き上げたが、すぐに戻ってきて二百名を超える男たちを包囲して銃殺に処した。それを聞いて驚いた村人があわてて家に戻ると、日本軍が再び現れて六十名の屈強な青年たちを拉致していった。若干の青年たちは、日本軍が何かを準備している隙をうかがって逃亡してきたが、彼らの話によると、連れ去られた者たちは火あぶりにされたそうだ。また、日本兵は老人たちを拉致して、逃亡した青年たちの代わりに生き埋めにしたり火あぶりにしたりしたそうだ。

 

据其它的报告,乘※平汉线列车北上时,看到一村庄冒着火焰,包围该村的日本兵见到逃跑的人就枪杀。听了这个报告,我的一位中国朋友(过去的七年里,交往的非常密切)确信这村子肯定是自己岳父和其它亲戚居住的村庄。某国大使馆人员也收到那一带铁路沿线的村庄被烧光的报告。

平汉线…平漢線。北京と漢口をつなぐ国有鉄道で、1949年に京漢線と改称された。

 

別の報告によれば、平漢線の列車に乗って北上する時に、一つの村が火炎に包まれていて、それを包囲していた日本兵が逃げ出してくる人間を銃殺しているのを見たそうだ。この報告を聞いて、私の友人の一人(過去七年間にわたって非常に親しく交際をしていた)が、その村は自分の義父とその他の親戚が住んでいる所だと断言した。また、某国の大使館員たちも、その辺一帯の鉄道沿線の村落が焼き払われていたという報告を受けたそうである。」

 

 

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