南京大虐殺・第三章


第 三 章 甜 密 的 欺 骗 与 血 腥 的 行 动

去年十二月下旬,日军当局命令金陵大学(美国教会学校,创立于五十年前)的三万余人难民登记。所有南京的居民必须一个不落地登记。下面是该校的外籍教授,根据十二月二十日所拟草稿和一月三日的日记汇集成的报告:

校内从十二月三十一日开始登记。校内的难民大多数是妇女,因此日军把两千余名男难民从新图书馆附近移到史威斯纪念堂Swazey Hall前的网球场上,进行了约半个小时大声疾呼的演说。内容如下:‘以前当过兵的或做过军夫的,都往后面去。自首者可以保全生命,可以得到工作。否则一经发觉,将立即枪决。’演说是很简短的,日军军官命令两,三个中国人反复地讲了许多遍。这几个中国人已经看到很多被认为中国兵或被诬指为中国兵的难民而牺牲生命了,极愿尽量拯救自己的同胞。我,桑和里格斯以及校内的中国职员,都听得非常清楚。结果有两三百人走了出来。据若干中国朋友所说,他们挺身自首是受了恐怖的影响,或系误解军夫二字所致。因为其中一部分人确实从未当过兵。

 

第 三 章 甘 い 欺 瞞 と 血 な ま 臭 い 暴 行

昨年十二月下旬、日本軍当局は金陵大学(五十年前に設立されたアメリカのクリスチャン・スクール)の三万人あまりの難民の登記を命令した。南京のすべての居住者は一人残らず必ず登記しなければならなかった。同校の外国籍の教授が十二月三十一日に書き上げた草稿と一月三日の日記をまとめたものに基づいた報告は、次のようなものであった。

「十二月二十日から大学構内の登記が開始された。構内の難民の大多数は女性であったので、日本軍は二千名あまりの男性を新図書館付近からスワジー記念堂前のテニスコートに移し、将校が三十分ほど大声で指示を下していた。その内容は、「以前に兵士もしくは軍属であった者は、みな後方に下がれ。自らそれを申し出た者は、生命を保証して労役に処するものとする。そうせずにひとたび発覚したならば、直ちに銃殺に処す」という極めて簡単なものであった。その日本軍将校の命令を二、三人の中国人が何回も繰り返して説明していた。これらの中国人は、すでに多くの人が中国兵と認定されていたり、あるいは、中国兵の難民とみなされて命を奪われたことを目撃していたので、自分たちの同胞を助けようと懸命に力を尽くしたのであろう。私は、サン氏やリグス氏、および、校内の中国人職員たちと一緒に、みんなでその命令をはっきりと聞いていた。この命令を受けて、二、三百人以上が走り出てきた。二、三の中国の友人たちの弁では、彼らが進んで自首してきたのは恐怖による影響であったが、ある者たちは、軍属(ここでは、日本軍が命令する労役の意。訳者補注)という二字を誤解してそういう行動をとったのであろう。事実の上で、一部の人間はまだ兵士になったことさえもなかったのである。

 

后来知道,实际负责难民登记工作的军官还比较慎重,较有理性。当然,这不是说,对于光天化日下,大庭广众之间,甚至在长官亲临进行登记手续之时,日本兵所表现的非法行为,那些军官可以不负责任,可以令人赞许。早晨登记开始时,一位日本军官与我商议,可否借用美国人的地方办理登记。如此谦逊,使我受宠若惊,因为在占领区这是少有的事情。他们大概也是为了尽量避免引起不必要的恐怖,我几乎不相信他们确有诚意。再有,日本兵从难民中挑出约一千人进行检查。很多中国人出示了简单的证明后,日本军官除了一人外,都加以释放,去听候登记。被释放的中国人也排成队受个别的查究。留下的一个人在我和桑纳两人的请求下也被释放。日军军官和我们讲好,自首的两三百人再供两餐,以后由日军提供。就是做卫队的日本兵也比较和善,给难民们分香烟。下午难民们进行报告姓名和职业。

 

その後に知った内容は、次のようなものであった。実際のところ、難民登記の仕事に責任を負った将校は、比較的慎重であり、わりあいと理性も備えていた。だが、当然ながらそれは、誰の目にも明らかな大衆の面前で行われたものであったし、その将校が自らその場に赴いて登記の手続きを行っている間に、日本兵が犯した不法行為などに対して、責任を負う必要がないというものでも、その将校を賞賛するものでもないことは、言うまでもないことである。早朝の登記開始の際に、一人の日本人将校が登記の手続きをするために、アメリカ人の住居の借用に関する相談を持ち掛けてきたが、彼らがそのような謙遜した態度で接してきたことは、占領区においてはめったにない出来事なので、私は戸惑うばかりであった。恐らく彼らは不必要な恐怖を引き起こすことを避ける努力しようとしたのであろうが、私は彼らにまともな誠意があるとはほとんど信じていない。また、日本兵は難民の中から約千人を選び出して調べたが、多くの中国人は簡単な証明書しか出さなかったので、日本軍の将校は、一人を除いて全員を釈放することになり、登記に関する指示を待つことになった。釈放された中国人も列を成して別の取り調べを受けることになった。除外された一人は、私とサン氏の二人が請求したので釈放された。日本軍の将校と我々との話し合いの結果、自首してきた二、三百人の難民に二食分の食事を今後日本軍が提供することになった。警備に当たっていた日本兵も比較的善良で、難民たちにタバコを分けてやるほどであった。午後になって、難民たちは姓名と職業の届けを出した。

 

可是发生了意外的麻烦。又有两个军官走来。他们的地位至少比负责登记的军官要高。其中一位对于已经登记的非常不满,他昨天曾到过学校,他的举止很粗鲁。由于他是这个区域内的宪兵指挥官,所以我们时常领教他的恶劣行径和鲁莽作法。接近五点钟时,两三百自首的难民被分为两队押解出去。其中的一人事后宣称,当时看到卫兵的紧张面孔,就预感到不祥之兆。

 ところが、以外にも面倒なことが起こった。さらに二人の将校がやってきたことだ。彼らの階級は、少なくとも登記に責任を負う将校よりも上位だった。その中の一人は、すでに登記に対して大きな不満を抱いており、昨日は学校に来ていたのだが、その行動がまことに荒っぽかった。彼がこの区域の憲兵の指揮官なので、我々としても、しばしば彼のひどい振る舞いと粗暴なやり方に忍従せざるを得なかった。五時近くになって、二、三百人の自首してきた難民たちが二つの集団に分けられ、護送されて行った。その中にいた一人が後で語ったことは、その時の衛兵の緊張した面持ちを見て、すぐに不吉な予感を抱いたとのことだった。

 

第二天早晨,一人带有五处刺刀伤痕到鼓楼医院求治。他是图书馆内收容的难民。据他报告,他在街上被日军所捕,加入来自网球场的一队难民。晚上,在城西某处,日本兵用刺刀屠杀同样的五百个俘虏,多数被刺死。苏醒后,日本兵已离去,他在黑暗中爬行。黑暗中辨不清方向,不知道究竟是什么地方。

 その次の日の早朝に、五か所に銃剣の傷跡を負った男が鼓楼病院にやって来て治療を求めた。彼は図書館の中に収容されていた難民だった。彼の報告によれば、街頭で日本軍に捕らえられ、テニスコートの一群の難民の中に加えられた。夜になって城内西部のある場所で、自分は日本兵に銃剣で刺されたが、同じように五百人の捕虜たちの多くが銃剣で刺し殺された。意識が戻った頃には、日本兵はいなくなっていたので、暗闇の中から這い出したが、方向がはっきりわからず、自分がどこにいるのかさえもわからなかった、ということだった。

 

二十七日,早晨,又送来一人,据他报告,昨天被日军带走的两三百自首的难民,只有三,四十人未遭毒手,他是其中的一个。他求我援救他,因为我周围有很多宪兵不便表示,所以我对他说,今天只登记妇女,目前不必多讲。后来,我曾去查询三次,但毫无下落。

 

二十七日、早朝にまた一人送られて来た。彼の報告によれば、昨日、自首してきた難民で、日本軍に拉致された二、三百人のうち、わずかに三,四十人は魔の手に掛からなかったが、自分もその中の一人である、ということだった。彼は私に救いを求めてきたのだが、回りには少なからぬ憲兵がいて話を聞くには不都合であったので、私は彼に向かって、今日は女性の登記しか行わないから、今は多くを語るなと言った。その後、私は彼を三回にわたって捜したのだが、その行方は全くわからなかった。

 

二十七日,二十八日的两天,我听到并调查了若干难民的报告。据称,昨天被日军抓去自首的三百难民中的一部分,五人,或十人被绑在一起,推进某巨厦内的第一室,又被送入第二室(也许是一个院子),那里正火光熊熊,每一队推进后,外面的人就可以听到呻吟和惨叫,但无枪声。原有六十人,剩下的二十人拼命破墙而逃。另有人说,因五台山和尚的请愿,而苟延残喘。但后者的间接报告可能是和尚们宣传。里格斯于二十六日晚听到同样的报告,按时间推测,这应该又是另外一件事情,否则不会如此迅速。这些报告重复混杂,不能完全相信,进行几次调查,还是没什么结果,而且每天紧迫而来的许多问题,使我们无暇兼顾。

五台山…山西省東北部の五台県にある古来からの霊山で、台上の五山からなり3058メートルの標高を誇る。峨眉山、天台山とともに中国仏教の三台霊場となっている。文殊菩薩の住む清涼山とされる。2009年には世界遺産に登録された。

 

二十七日、二十八日の両日、私は何人かの難民の報告を聞いて調査した。それによると、昨日日本軍に自首してきて連れ去られた三百人の難民の一部は、五人あるいは十人とまとめて縛られ、大きな建物の一室に連れ込まれた。そのあとで第二の場所(あるいは中庭だったかも知れない)に送り込まれたが、そこは火が激しく燃えさかっていて、一つの集団が押し出されるたびに、外にいる人の耳にうめき声や悲鳴が聞こえてきた。だが、銃声は聞こえなかった。当初は六十人いたのだが、残った二十人は必死に塀を破って逃げた。また、別の人が言うには、五台山の僧侶が何とかして難民の命を救うように懇願したから助かったということだった。しかし、この後者の間接的な報告は、僧侶たちの宣伝である可能性もあった。リグス氏は、二十六日の晩に同じような報告を聞いたが、事件が起こった時間からして、これは別の事件の状況であるはずで、そうでなければこのように迅速であるはずがないと推測した。これらの報告は重複や混乱があって、すべてを信じることができず、何回か調査を進めたが、何の結果も得られなかった。しかも、多くの問題が毎日さし迫っていたので、我々は同時にそれらに気を配る余裕がなかった。

 

十二月三十一日,去图书馆收容所时,一位可靠的助理员某人报告这一件事情,并恳求我们援助。告诉我如果需要证实,可以唤他们来。据他们说,校内押解走的两三百难民,被分为数小队。一队先被带到五台山,再押到汉西门外的秦淮河畔,用机枪扫射。

秦淮河江蘇省南京市内を貫く河川。長江下流(揚子江)の右支流で、南京市内では長江を除く最大の川で、全長は約百キロメートルほどだが、その流域面積は広く2600平方キロメートルにも及んでいる。

 

十二月三十一日、図書館収容所に行ったところ、信頼できる補助員の一人が次のような報告をして我々の援助を求めた。もし証拠が必要ならば、被害者を呼ぶことも出来ると告げてくれた。彼が語ったのは、校内から拉致された二、三百人の難民は、少人数ごとに分けられ、第一陣は五台山に連行されて、そこから漢西門外の秦淮河河畔に護送されて機関銃で掃射された、という内容であった。

 

一月三日,图书馆收容所的五个难民从十二月二十六日的屠杀中逃了回来。我与其中两人面谈,证实了上述的五台山附近日军使用火刑的事件。据他们估计,约八十人被杀死,四, 五十人逃出。另一个被刺伤的难民,也在图书馆收容所内,报告了同样的事实。

 一月三日、図書館収容所の五人の難民は、十二月二十六日の虐殺事件の最中に逃げ帰ってきた。私はそのうちの二人と面談したが、彼らは上述した五台山付近での日本軍による焼殺事件について証言した。彼らの言によれば、約八十人が殺され、四、五十人が逃げ出したということだ。また、銃剣で刺された別の一人の難民も、図書館収容所に逃げ帰っていたが、同じような事実を証言した。

 

另有一人非常聪明,回答问题和叙述都清楚而不含混。他是第二批被带到五台山庙前巨宅内(其地点是上海路的大厦之一,南面距美国学校很近),在那里他看到许多中国和尚和一个日本和尚在念经祈祷,庙门口铺着长长的纸条,※当时心情非常恐惧。(他说南京有日本和尚,我感到非常奇怪,便问他怎么知道是日本和尚,他说那和尚的鞋端另外劈开了一个大脚指的位置。他曾久居天津,故能有此见识。几天后,我也在上海路上看到过这样的和尚)。他觉得※凶多吉少,便向一个态度和善的卫兵表示忧虑。卫兵静静地用棒子在地上写出几个大字:※大人命令。

当时心情非常恐惧…その時は非常に恐ろしいものを感じた。僧侶が読経や祈祷をしていることから、日本兵が中国の人民を虐殺するのではないかという不安を意味する。

凶多吉少凶が多く吉が少ない意。転じて、見通しが暗い。

大人命令…上官の命令。閣下の命令。

 

別のもう一人の難民は非常に聡明で、質問に対する回答も陳述も明快で何らの曖昧さもなかった。彼は第二陣として、五台山の廟前の大きな邸宅(その場所は上海路の大きな建物の一つで、南側はアメリカンスクールから極めて近い)に連行された。彼はその場所でたくさんの中国の僧侶に混じって、一人の日本人僧侶がお経を読んで祈祷する姿と、廟の出入り口に長い紙が貼られているのを見た。その時は非常に恐ろしいものを感じた。(彼は南京には日本の僧侶がいると語った。私はたいへん不思議に思ったので、すぐにどうして日本の僧侶だとわかったのかと尋ねたところ、彼はかつて長く天津に住んでいて、日本の僧侶の足の親指が履き物の外に開いているのを見たことがあり、それでよく覚えているのだと語った。数日後に、私も上海路の路上でそのような僧侶を目撃した)。彼は悪い予想を感じたので、すぐに態度が穏やかで善良そうな衛兵に向かって憂慮の意を表したところ、その衛兵は静かに棒を使って地面に大きな字で「上官の命令」と書いたそうだ。

 

他旁边三十多人(没有谈到其他人)被铁丝绑着手,两入一排,押往汉中门,渡过秦淮河。四,五个人因有墙根可以掩护,在黑暗中,屏住呼吸,等待逃走的机会。约在午夜一时,他听到从北门传来的凄惨的喊声。天明,他们向北走,看到了尸体横躺竖卧,满身是刺刀的伤痕恐怖万分。他们安全地经过汉中门,潜回难民区。

 

彼のそばには鉄線で手を縛れていた三十人あまりの人々(その他の人々については語らなかった)がいたが、二人一組で漢中門へ追いやられ、秦淮河を渡らされた。彼は四、五人の難民と、垣根の裏に身を隠すことができたので、真っ暗な中で息を潜めて逃げ出す機会をうかがっていた。夜中の一時頃に、彼は北門から凄惨な叫び声があがるのを聞いた。夜が明けたので、彼らが北に向かって走ったところ、大勢の人が横たわって死んでいるのが目に入った。死体は全身に銃剣の刺し傷がありひどく恐ろしい状態であった。彼らは漢中門を通って難民区に無事に戻ってきた。

 

对于这个人的叙述及其所提供的证据,我还可以添加以下两点。第一,中国红十字会一位负责人要求我们去视察汉中门外的许多尸体。第二,据国际委员会的克罗格说:他一早在汉中门外冒险行动时,曾目睹些尸体,但从城墙上看,则一无所见。现在城门是关闭的,不能出去。上述直率地向我叙述一切的中国人预先感到他要去登记一定会发生困难。一月七日,校内又举行公开登记,日本宪兵从面对着的难民中挑去了十个人,果然他是其中之一。这一个星期内,负责登记的军官只顾执行上级的命令,每天都需这样地抓走难民,似乎不这样做就不能使上级满意。当然,自动承认是中国败兵的事情几乎完全没有了,而登记的手续也已与最初大不相同。我应和往常一样地关注着登记的种种情况,※只要日军官有可能允许,就尽可能地援助受难者。有时我试图用间接的方法搭救被绑架的难民,但没有什么效果。我曾抓住一个机会,向一个态度好的军官恳商,是否可由我担保释放前面讲述到的中国人和另一个人。第二个人被释放了,不知何故那个中国人却不准释放。再度努力,但失败了。我担心连累他人,不得不适可而止。虽然不能完全确定,但死亡的可能性是非常大的。

只要日军官有可能允许,就尽可能地援助受难者…日本軍の下級将校には敗残兵を自首させても、その生命を守る権限が与えられていなかったことを示す。

 

この個人的な報告および提供された証拠に対して、私は次の二点をさらに付け加えたいと思う。第一は、中国赤十字会の責任者の一人が漢中門外の多くの死体を視察に行くことを我々に要請したことであった。第二は、国際委員会のクロイゲルが語った内容で、彼がある日の早朝に漢中門外へ危険を冒して出掛けた時には、いくつかの死体を目撃したことがあったのだが、城壁の上からではそれが全く見えなかったというものだった。現在では、城門も閉鎖されているので、城外に出ることはできなくなっていた。前述したこの事件についての一切を率直に我々に語ってくれた中国人は、将来の登記の際に必ずや自分に危険なことが発生するだろうと予感していた。一月七日、校内で再び公開の登記が始まった。日本の憲兵が列の前面にいた難民の中から十人を選んで連れ去ったが、はたして彼もその中の一人なのであった。ここ一週間というものは、登記に責任を持つ将校は、ひたすら上官の命令を執行し、毎日このように難民たちを引き抜いていったのだが、どれほどこのような仕事をしても上官の満足は得られないようであった。当然のことながら、中国の敗残兵を自動的に承認するような状況はほとんど完全になくなり、登記の手続きも最初の頃とは大きく異なっていた。私もふだんと同じように登記の種々の状況に注意を向けていた。日本軍の将校が承認する権限さえ持っていれば、受難者を助け出すことが可能であった。私は時には拉致された難民を救い出す間接的な方法を試みたのだが、それは何の成果もあげられなかった。また、一度は機会をうかがって、かつて心をつかんでいた態度の良好な一人の将校に対して、私の責任において、前に述べた中国人と、もう一人のある中国人の釈放ができるかどうかを懇願した。後者の中国人は釈放されたのだが、なぜか前者の中国人は釈放されなかった。再度努力をしてみたが失敗に終わった。私は、他人に累が及ぶのを恐れて諦めざるを得なかった。完全に確定することはできないが、死亡したという可能性が非常に大なのである。

 

据图书馆收容所的两个难民报告,再三叉河附近沿秦淮河北岸,日军刺杀死几百名难民,只有他们逃了出来。

 図書館収容所にいた二人の難民の報告によれば、再び三叉河付近の秦淮河の北岸で、日本軍が数百名の難民を刺殺したが、彼らだけは逃げ帰って来たそうである。

 

不应该忘记,在过去的两星期内所发生的同样事件不知还有多少,本文所述不过是一小部分而已。他们的做法在这两星期内有很大的变化,现在是只要他们认为是中国败兵,不管是否冤枉都可以集体的屠杀。按照国际公法,如无严格的军事上的必要,俘虏的生命可以尊重。但这里不是讨论国际公法条文的地方,日本军人也不会有讨论的兴趣。他们把国际公法搁置一边,公然承认是为了复仇。其实许多次被屠杀的难民,远远超过此数。在目前的情况下,有两个与我们有密切关系的问题令人烦恼。第一是日军以完全放弃信义的手段,葬送难民的生命;第二是我们以及难民的全部财产与这种滔天罪行均有密切的关联。关于那一次屠杀,在时间上, 地点上以及方法上,全部证据非常充足。其它的几次同样有许多难民一去而不复返,我们只有简单的报告。据各方面的情况推测,那天从校内拖去的难民,大多数是在某个晚上处死的,其中有若干人并入由其它地方移来的等待判决的受难者之中。

 忘れてはならないことは、過去二週間に発生した同様の事件がどの位あるかはわからず、本文に叙述したのはその一部分に過ぎないということである。日本軍のやり方は、この二週間で大きく変化してきており、現在では、日本軍が中国軍の敗残兵だと判断しさえすれば、事実かどうかにかかわりなく全てに濡れ衣を着せて集団的な虐殺を行うことができるのである。国際法に基づいて、厳格な軍事上の必要性がなければ、俘虜の生命は尊重されなければならない。しかし、ここは国際法の条文が検討されるような地域ではなかったし、日本の軍人たちもそれを討論するような興味を持ちあわせていなかった。彼らは国際法などは傍らに放置して、公然と報復のためであると公言している。報復というが、その実態は、虐殺された難民の数の方がはるかに多かったのである。現在のところ、我々と密接な関係があって頭を悩ませる二つの問題がある。第一は、日本軍が信義を完全に放棄した手段によって難民の生命を奪ったことで、第二は、我々と難民の全ての財産がこの種の大罪と極めて密接な関係を持っていることである。一番目の虐殺に関しては、時間と場所、および、その方法の点においての証拠は完全にそろっているが、それ以外の、数次にわたって難民を拉致して返さなかった事件などについては、我々は簡単な報告ができる程度でしかない。しかし、各方面の状況から推測すると、その日に校内から拉致された難民は、大多数がその晩に処刑され、その他の若干名は他の地域から難民たちと一緒に受難の判決を待っているような状態であった。

 

因为过去两星期的种种暴行,使我至今通过网球场都感到很难过。我们对付在这场悲剧中占各种重要地位的日本军官和士兵,必须以笑睑相迎,并谦恭有礼,这种情况持续了许多天,这简直是一种苦刑。我们觉得我们已经成为屠杀二百多名难民的从犯,应该向他们可怜的家属负责。家属们理怨着:“那些日本军官和士兵究竟是什么样的人? 其中也有几个比我们所接触的暴徒要仁慈许多,谁无妻儿?他们中间一定有许多人爱着自己的妻儿啊!”

 過去二週間にわたる各種の暴行のせいで、私は今でもテニスコートを通り抜けるとやりきれない気持ちになるのである。我々はこの場で起こった悲劇に関して、各種の重要な役割を果たした日本軍の将校や兵隊たちを必ず笑顔でもって迎え、うやうやしい礼をもって応対しなければならなかった。このような状態が何日も何日も続くので、まるで一種の刑罰のようなものであった。我々は自分たちがすでに二百名以上の難民を虐殺した従犯として、憐れむべき彼らの家族に対して責任を負うべきものであると認識している。彼らの家族たちは、「あの日本の将校と兵隊たちはつまりどんな人間なのだろう。その中の何人かは我々が接触してきた暴徒たちよりも慈悲深かった。誰にでも妻子はいる。彼らの中にも必ずや自分の妻子を愛する人間が少なからずいるだろうに」と恨み言を言っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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