コミュニケーションのための英語

恩田 満

 英語は、現在それを母国語とする国々や地域だけでなく、世界各地で広く使われている。例えば、アジア人同士が、またアジア人と欧米人が、あるいはアフリカ人とヨーロッパ人が、といった具合で、それぞれがみな英語を使って話し合いをしている。こうした現実から、「英語は国際語である」と言われるようになった。なるほど、一面では確かにそのとおりだと思う。だが、私はあえて「国際語」に代えて「国際共通語」という名称を使いたいと思う。本来、国際語とは、言語を異にする異民族同士が、対等平等の関係において共通に使用する言語で、エスペラント語のような存在であるべきだろう。「国際語」とか「共通語」とかについて論ずる際に、留意しなければならない重要な点は、あらゆる言語が等価値であり、対等平等だということだ。ある言語が他の言語に対して優位性を持つことがあってはならないのだ。
だが、「国際語」と呼ばれるようになった英語は、19世紀においては、世界各地を植民地支配した大英帝国の言語であったし、20世紀においては、支配的大国として世界に君臨したアメリカの言語であった。19世紀、20世紀において英語は、紛れもなく宗主国の支配的言語であった。英語はすなわち、植民地主義を推進する言語であったし、超大国による一国支配を広げる言語であった。こうした過去の歴史的な事実にふたをして「英語は国際語である」と言うことには抵抗があるので、私は「英語は国際共通語であってもよい」という位置づけで、「異文化理解とコミュニケーションのための英語」という点について論じたいと思う。
 「英語は国際語である」と言う人々の多くは、「美しいブリティッシュ・イングリッシュこそが正統である」、あるいは「正しいアメリカン・イングリッシュが中心でなければならない」という意識を持っている。そういう考え方に立つと、中国・東南アジア・メラネシアなど、イギリスの旧植民地で使用されている、地元のもともとの言語との混成英語、すなわち、ピジン・イングリッシュやクレオール語などは、誤った下等な言語ということになってしまう。だが、本当にそうなのだろうか、ピジンやクレオールは消滅すべき言語なのだろうか。いや、決してそうではない。これらの言語は、それぞれさまざまな歴史を経て成立してきた言語である。幾多の民族の文化や伝統を土台にして使われるようになった言語である。従って、これらの言語はそのまま維持されていくべきだと私は考えている。しかし、残念なことにこれらの言語には広域性・汎用性に欠けるという指摘がある。それなら、そうした指摘に対しては、広域性・汎用性のある「共通語」を持てばいいのだと、私は主張したい。そうした意味での共通語がたとえ英語であっても何ら問題はないと思うが、「わが英語」「この英語」こそが「本流だ」、「原点だ」、あるいは、「中心だ」などという感覚を持ってはならない。
そこで、滑稽な例を一つあげて、この話題を結ぼうと思う。心ないアメリカ人がオーストラリア人の発音をあざけって、「彼らは、A・B・C を アイ・ビー・シーと発音し、 “I’m going to a hospital today.” を “I’m going to a hospital to die.”と発音する」などと皮肉って笑ったりすることがある。こういうアメリカ人は、「自分の国アメリカは世界一強い国であり、アメリカ語は世界一正しい言語だ」とでも思っているのだろうが、「オーストラリアン・イングリッシュ」の方が伝統的な「ブリティッシュ・イングリッシュ」に近いということを知っているのだろうか。まさに「目くそ鼻くそを笑う」というたぐいの次元の低い話だが、この種の考え方を持つ輩は少なくない。
さて、こうした低次元の問題から離れて、「共通語」の意味とあり方について考えてみることにする。それでは、まず中国の場合を例にとってみよう。中国語には、北京語・上海語・廈門語・広東語などをはじめとする七大「方言」があるが、13億人がそれぞれ自分たちの「方言」だけで話していては、お互いの意思疎通ができない。ここで言う中国語の「方言」とは、日本人が考える関西弁や東北弁という意味が通じる程度の方言の範囲ではない。たとえば、ラテン系の言語を例にとれば、フランス語やイタリア語、あるいはスペイン語といった別の言語に当たるほど差が大きいと考えるべきである。一般の中国人はみな、地元で気心の知れた仲間たちと会話をする際に、地元の「方言」を使い、他の地域の人と話をしたり、公的な立場で発言をしたりする時には、北方方言であり「全国共通語」でもある北京語を使っている。テレビやラジオのニュースも北京語で放送される。その意味では、13億人のほとんどの人が地元の「方言」に加えて、「全国共通語」を使うバイリンガルである。そうした実態から北京語を「標準語」と呼ぶ人がいるが、この「標準」という言い方も避けたい。「標準」という表現には「基準」とか「基になる中心的なもの」というイメージが添えられて、どうしても上位に位置する傾向があり、対等平等の観点からはずれてしまうからだ。
次にヨーロッパの場合を例にとろう。EU各国・各地域で行われてきた国勢調査の類には、「あなたはどの言語が母語で、それ以外にどういう言語を、いくつ使いますか」というような言語に関する質問項目が必ず入っていた。地続きであるヨーロッパ、それに加えて国際的な結婚が歴史的にも地域的にも非常に多いヨーロッパ、こうした国々や地域においては、かなりの数に上る人々がバイリンガルであったり、マルチリンガルであったりする。では、そういう人々がみな知的レベルの高い人であったり、特別な言語教育を受けてきた人であったのだろうか。決してそんなわけではなく、われわれの回りにも見受けられるごく普通の人々である。
上記のような、中国やヨーロッパなどの実例を見ると、人間はだれしも、本来的にバイリンガルなりマルチリンガルになれる能力を内包しているのではないかと思う。日本人も当然そうした能力を持っているはずなので、それを導き出す環境なり制度が確立すれば、われわれもみながバイリンガルなり、マルチリンガルになれるのではなかろうか。その環境なり制度が確立されることを望むが、まず最初に、日本の英語教育の大改革が必要なのではないだろうか。具体的なことは識者や専門家の判断にゆだねたいと思うが、市井にある人間の一人として、私も複数の「国際共通語」を操るバイリンガルなり、マルチリンガルになれるように努力を続けたいと思っている。

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