日本のキリスト教と仏教について

恩田 満

<布教と弾圧の歴史>
日本にキリスト教が初めて伝えられたのは、今から450年以上も前の1549年のことだとされている。スペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルがカトリック・イエズス会の伝道活動の一環として、日本で布教活動を始めたのがその発端である。そのころのヨーロッパは、宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリック同士で対立が起こっていたばかりでなく、カトリックとプロテスタントの間でも激しい宗教戦争が繰り広げられていた。このことは、日本でのキリスト教の伝道活動にも影を落とすことになった。その一つは、ポルトガルからフランシスコ会の宣教師がやってきて、同じカトリックでありながら、イエズス会と対立したことである。さらには、豊臣秀吉の時代にはオランダからプロテスタントの宣教師が来日し、カトリックと強く対立したことも問題であった。それぞれの派に属する宣教師たちが互いに反発し合い、相手の国々が日本に対する領土的な野心を抱いていると中傷し合う現象も現れてきた。これらのキリスト教同士の確執に加えて、仏教界からもキリスト教に対する排斥運動が起こるようになった。こうした動きを受けて、豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教に対して警戒感を持つようになった。徳川3代将軍家光の時代になると、1628年の踏み絵、30年のキリシタン禁書令、37年の島原の乱の鎮圧、そして、39年の鎖国に至ってキリスト教の受難の時代となった。その後の200年以上にわたる鎖国は、欧米列強の侵略を防ぐ方策の一つとなった側面もあるが、日本が欧米諸国の近代化から遅れる主な原因ともなった。江戸幕府がキリスト教を弾圧した背景には、キリスト教を国是とする欧米列強諸国による侵略を怖れたという側面もあるが、徳川封建体制を維持するためにそれが必要だったという側面もある。徳川封建体制を支えるバックボーンとしての身分制度は、儒教による厳格な上下関係の順守にあった。だが、キリスト教では、神の前では人はみな平等という立場に立つので、その信仰と哲学は封建体制とは決して相容れないものであったのである。
 釈迦の誕生は紀元前560年ごろなので、キリストの誕生より500年以上も前ということになる。当時の東西の歴史的な背景を考えると、仏教発祥の地インドとキリスト教発祥の地パレスチナとの間で貿易や文化の交流が頻繁に行われていたことは容易に察しがつく。仏教が西側のパレスチナに渡り、キリスト教の誕生に影響を与えたと考えることは奇妙なことではない。紀元前250年頃のアショーカ王の時代には仏教が尊ばれ、シリアやエジプトまで僧が派遣されていたことは歴史上の事実となっている。なお、キリスト教と仏教の関係については、キリスト教の研究者の中に「福音書にあるキリストの教えは、仏教思想が下敷きになっている」と主張する者がいる(『本来のイエス ―― キリスト教の仏教起源』1995)ほどである。
日本への仏教の伝来は、西暦538年のことだといわれるが、それ以前に大勢の帰化人が日本に来ていたので、それより前に持ち込まれていた可能性は否定できない。当初は、仏教の受容に関して神道の立場から否定的な動きもあったが、聖徳太子の時代に入って信仰が広まるようになってきた。一方、キリスト教については、前述のように1549年に伝来したのだが、これには次のような事情と経過があった。
1547年夏、ザビエルはマラッカでアンジロー(ヤジローとも)という名の日本人に会い、日本が高い文化を持った国であることを知って日本での布教を決意する。ザビエルは、アンジローの案内で鹿児島で布教活動を始めたが、時の領主島津貴久がこれを許したのは、彼の関心がキリスト教というよりはむしろ南蛮貿易にあったからだと言われている。ところが、南蛮貿易がいつになっても開始されなかったので、島津貴久は、厄介払いをするようにザビエルを京都に行かせた。ザビエルは、天皇から布教の許可を得たいと思っていたので、喜んで京都に移ったがそれを実現させることはできなかった。さらに、彼は仏教学のメッカともいうべき比叡山に登り、宗教論争を挑もうとしたが、異国の人物の入山を拒む比叡山の掟にあって、これも果たすことはできなかった。そこで、彼は次に周防(山口県)の領主大内義隆に大量の献上品を用意してこれに取り入った。布教を許されたザビエルは、周防に日本最初の教会となる大道寺をつくった。しかし、当時の人の反応は、「天竺(インド)の坊主が新しい仏教の布教に来た」といった程度のものであったようだ。ザビエルのよって始められたキリスト教の布教は、その後も続いて訪れた多くの宣教師たちによって、西日本を中心に大きな広がりを見せ、16世紀半ばから17世紀にかけて全盛期を迎えることになった。だが、その後、秀吉や家光の禁教令によってほとんど消滅してしまうことになった。なお、その理由と背景については、前述の通りである。

<仏教とキリスト教>
この問題について論ずる場合に、すぐ浮かんでくるのは親鸞の回心(えしん)とパウロの回心(かいしん)についてのことである。仏教とキリスト教には大きな違いがあるが、両者の間には奇妙な共通点がある。
親鸞の起こした浄土真宗の教義は「他力(たりき)真実のむねをあかせるもろもろの聖教(しやうげう)は、本願を信じ念仏をまうさば仏(ぶつ)になる、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや(『歎異抄』十二)ということばにある。親鸞は、聖徳太子を非常に崇敬していたので、聖徳太子がつくったといわれる京都の六角堂で百日の願をかけた。そして、九十五日の夜に「吉水に行け」というお告げを得て、東山吉水の法然の門を叩く。浄土宗を開いた法然は、親鸞に向かって、阿弥陀如来の御名を唱える念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」と唱えよ、と言う。そこで、親鸞は直ちに法然の弟子となって修行を始めたのである。親鸞は、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、浄土へ行くことができるという法然の考え方に感銘を受け、それを広めていくことにした。すなわち、厳しい修行を長きにわたって続けなければ成仏できないとされたこれまでの考え方を否定して、仏教の大衆化を図ろうとしたのである。親鸞は「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(まして悪人は往生を遂げることができる)」とも語っている。この言葉に対して、弟子の唯円(ゆいえん)は「この条、一旦そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり(『歎異抄』三)」とその真意を説明している。この考えは、阿弥陀如来の力が絶対的なものであるということと、それを信じさえすれば誰でも極楽浄土へ行くことができることを説いたものと言えよう。ここには、無条件に阿弥陀如来を信じる重要性・絶対性が表れている。
また、親鸞には夢のお告げの逸話が多くある。法然の弟子になった二年後に、親鸞は次のような夢を見ている。六角堂の救世観音が僧形をして現れ「行者宿報説女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」と示現を与えてくれたというのである。その趣旨は「親鸞よ、もしもそなたが前世からの因縁により、どうしても女なくしていられないのならば、私が美しい女に姿を変えてそなたに犯されてやろう。そして、一生の間そなたの人生を気高く守り、死ぬ時には極楽浄土に導いてやろう」というようなものであろうが、これはまさしく肉食妻帯の全面的な肯定であった。この示現を受けて親鸞はその後、自ら肉食妻帯の道をたどっていくのであった。師の法然は、かたく肉食妻帯を戒めていたので、親鸞のこのあり方は、師の教えに背くことではあったが、一方では、高い壁で仕切られ一部の特権階級のものであった仏教を、ひろく庶民に広め大衆化させることにもつながったのである。
さて、パウロの回心に移ろう。キリスト教の歴史において重要な位置を占め、大きな働きをしたパウロ(当時サウロ)は、まず教会の恐るべき迫害者として登場する。彼は、福音の宣教を熱心に進めるステファノの処刑に立会い(『新約聖書・新共同訳』<使徒言行録>7-58)、エルサレムにおいて積極的に迫害に従事する(同8-3)。さらに、ダマスコに逃れたキリスト者を追って、パレスチナの境界を越えるのであった(同9-1)。しかも、このような行動は、上から命じられての任務として行ったのではなく、彼自身の確信と信念に基づく自発的行為として行われたのである。熱心なユダヤ教徒としてキリスト教を迫害したことは当然の帰結であった。サウロは大祭司の添書を求めて意気込んで、ダマスコヘ向かった。ところが、神はこのサウロを捕らえ、キリスト教の宣教者として召されたのである。まず、サウロは天啓としてのイエス・キリストの声を聞く。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』(使徒言行録9・3〜5)」というのがそれである。神の行為は人の思いや計画を越える。迫害は、かえってキリスト教を各地に広め、熱心な迫害者が神の僕・宣教者として召されるのである。
パウロの回心は、突如として起きた出来事であった。パウロにとっても教会にとっても、まさに予期しないことであった。パウロはそれまで何のためらいもなく、自らの使命と信じて迫害に従事していたのである。だが、彼は自らの過ちを認めて回心したのではない。「主がわたしを捕らえられた」と告白しているように絶対的な神の力がパウロを正しい信仰に導いたのである。使徒言行録は、パウロの回心の記事を3回(9-1〜19、22-6〜16、26-12〜18)も記している。彼の回心は、当時の教会にとっても、それ以降のキリスト教史にとっても、重要な意味をもっている。しかし、いずれの記事も、主役はパウロではなく神であった。パウロは回心の後に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか」「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。<ローマ信徒への手紙>(7-24〜25)」と述べているが、親鸞は「たとひ法然上人にすかされまひらせて(だまされ申し上げて)、念仏して地獄におちたりとも、さらに(まったく)後悔すべからずさうらふ。そのゆへは、自余の行(念仏以外の行)をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄におちてさぶらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさうらはめ(あるでしょうが)、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(『歎異抄』二)」と語った。どの修行に励んでも自分が地獄ヘ墜ちることは必定と悟った親鸞は、師法然の教えを無条件に信じ、命をかけて「念仏」を唱えることにしたのである。
パウロの場合はイエスキリストに、親鸞の場合は法然に絶対的な信頼を寄せているという点で二人は共通点を持っている。すなわち、「無私の心で信じさえすれば、かならず救われる」ということである。 

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