中国の古代思想

恩田 満

中国の思想は、春秋戦国時代(BC.770〜221)に諸子百家と呼ばれる思想家たちが輩出し、諸国の政治・法律・文化あるいは軍事にさまざまな影響を与えるなど大いなる展開を遂げた。その思想のいくつかは中国ばかりでなく日本を含む周辺の諸国に広がり、現在もなお大きな影響を与え続けている。ここでは、それらの思想のうちから重要な柱となった儒家・道家・法家という三つの思想の潮流を現代社会とも関連させながら述べることにする。

儒家(孔孟思想)
 儒家の思想は、紀元前500年、孔子によってうち立てられ、孟子のよって強固なものとして確立された。孔子の思想は「仁」という語によって代表されている。「仁」は人間の愛情を意味するが、その根本となるのが親に対する愛と目上の人に対する愛である。その実践のためには、真心を尽くし、思いやりを持ち、社会の決まりを守らなければならない。
孔子は「仁」を政治の分野にも展開し、徳治主義を唱え「徳によって政治を行うことは、北極星がいつまでも同じ場所にあり、多くの星がそれを中心に秩序正しく動くようなものであり、法律や政令などを用いる政治ではなく、人格で人民を導き秩序を保つような政治を行えば、人民の心も清く正しいものになる」と説いた。
孟子は孔子の思想を受け継ぎ、性善説を唱え「人間はもともと他人の不幸を見過ごすことが出来ない心を持っているから、生まれながらの性質は善である」と主張した。「性善説」は、孟子の思想の基礎となるものであるが、これを政治の世界にも展開し、武力による政治「覇道」を否定し、「仁義」の徳による「王道」の重要性を説いた。王道政治を行う具体的な政策として、人民に一定の職業や収入を与えて生活を安定させ、安らかな心や良心を持たせようとした。
儒家の思想を表す語として、「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」が挙げられるが、これらの持つ語の意味がそのままにあるいは拡大されて日本にも持ち込まれ、大きな思想的な影響をもたらした。儒家の思想は、道徳的な規範を示す良い点も多々あったが、時には歪められ拡大解釈されて、大きな問題を含む場合もあった。とくに、江戸時代においては「忠」と「孝」が重視され、徳川封建体制と士農工商という身分制度を支える思想的なバックボーンとなった。この「忠孝」重視の考え方は、その後も長く引き継がれ、戦前の天皇制絶対主義を支え、侵略戦争を推進する思想の根幹でもあった。

道家(老荘思想)
道家の思想も紀元前の春秋戦国時代に起こったが、今なおその思想は世界各地にさまざまな形で影響を与えている。1960年代後半に現れたヒッピーと呼ばれた若者たちにもこの思想が大きな影響を与えたとも伝えられている。道家の思想は、老子と荘子という二人の人物の書物『老子』『荘子』に代表されるが、その唱えたところには共通点と相違点がある。それら二人の説は次のようである。
老子は「道」という語をしばしば用いている。「道」の概念の定義は難しいが、存在する天地万物の根源、永久不変の唯一絶対の存在を意味するものとされている。「道」に近いものとして水がたとえられている。水は、万物に恵みを与えつつ、他と争うことがない。しなやかであるからこそ、堅いものにも勝つ。このような水のあり方を身につけ、生きる知恵を持つことが老子の思想の基本概念である。その上に立って老子は、「無為自然」「無用之用」と「小国寡民」を唱えた。「無為自然」とは、人為的な作為を何も加えずに自然にあるがままに生きていこうとする考えで、「無用之用」とは、形のあるものが役に立つのは、目に見える外形的なところにあるのではなく、だれも気づかない空虚な無にあるという考えである。老子は、その例として、陶器や部屋を挙げ、それぞれその内部が空虚であるから、ものを入れることが出来て役に立つのであると述べている。また、「小国寡民」とは、政治思想で、自然のまま、無知無欲で、文明や文化を否定し、自給自足に満足する社会にこそ理想の社会があるという考えである。これは富国強兵政策をとり拡大拡張を求めた当時の時代の流れに真っ向から対立するものであった。
荘子は、「万物斉同」を唱え「無何有之郷」を理想郷とした。「万物斉同」とは、人間世界の是非・善悪・真偽・美醜・貧富・生死など、対立しているとされるものは、相対的な価値基準にすぎず無意味であり、すべてに対立差別はなく同一等価であるという思想である。「無何有之郷」とは、何もなく広々として束縛するものが何もない無の世界こそを理想郷とする考え方である。『荘子』の一節「夢に胡蝶となる」を例にとって、荘子の考え方を見ることにする。
ある日、荘子は蝶になった夢を見た。夢の中でひらひらと気ままに飛び回っていたが、やがて目が覚めると、自分はやはり荘子であった。はたして荘子が蝶になったのだろうか、それとも蝶が夢の中で荘子になったのだろうか。
ここでは、夢と現実の両者の間には絶対的な差別などなく、どちらの状態も絶えざる変化の中で一時的な姿にすぎないと述べているのである。
道家の思想が日本に与えた影響は古くまた幅広い。信仰の分野では、奈良時代の山岳信仰であった修験道に影響を与えたことは古くから知られているが、医学の分野では、江戸前期に著された貝原益軒の『養生訓』にその影響が顕著に見られ、思想の分野では、江戸後期の石田梅岩らの心学にも大きな影響を与えたとされている。

法家(韓非の思想)
韓非の中心的思想は、厳正な法治主義であり、法の権威によって臣下を統御し富国強兵を推進すべきだと主張した。その書『韓非子』に「侵官之害」というのがあるが、人間愛や人情よりも規則が必要だとする考え方が述べられている。
昔、韓の昭侯が酒に酔って寝込んでしまった。冠をつかさどる典冠の役の者は殿様が寒かろうと思って上着を身体に掛けてあげた。さて、眠りから覚めた殿様は喜んで、お付きの者に「いったい誰が掛けてくれたのか」と問うと、お付きの者は「典冠です」と答えた。そこで殿様は、衣装係である典衣と、上着を掛けてくれた典冠の両方を罰した。典衣を罰したのは、なすべき仕事をしなかったからであり、典冠を罰したのは職分を越えた行為をしたと考えたからである。寒さなど平気だというわけではないが、職務の越権行為の及ぼす弊害は寒さの問題どころではないのである。
秦の始皇帝は天下を統一したあと、天下を収めるのに、諸侯に領地を与えて領民を治めさせるというそれまでの体制を改めて、自ら一人だけが皇帝として君臨する方式をとった。絶対君主である皇帝だけに権限を集中させ、他の者はすべて臣下であるという体制をとった。この体制で天下を治めるには始皇帝の手先となって働く多くの官僚が必要だが、この官僚たちが命令の背かないようにするためには、役職の権限を絶対に越えさせないようにして、官僚の自由意志を制限することが大切であったのだ。韓非のこの官僚統制術は始皇帝にも採用されたのである。
また、同じ書に「二柄」という一節がある。これは、二柄、すなわち賞罰の権は君主が必ず堅持すべきものであって、そのどちらを失っても君主の地位を維持することは出来ないという内容になっている。それを例にとって、韓非のもう一つの考え方について述べることにする。
そもそも虎が犬を服従させることが出来るわけは、爪と牙を持っているからである。もしも虎に爪と牙とを手放させて犬にそれを用いさせるならば、虎は犬に服従させられることになる。主君たるものは、賞罰の権をもって臣下を抑えていく者である。今かりに主君たる者が賞罰の権を捨てて、臣下にそれを用いさせるならば、主君は反対に臣下に抑えられてしまうことになる。
ここに韓非の唱える「信賞必罰」の考え方があらわれている。すなわち、功績をあげたものは必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰するということであり、この考え方は、日本の戦国時代に多くの指導者が配下の者を処する場合にしばしば取り入れられた。また近代では、ドイツの宰相ビスマルクが社会主義者に対してとったやり方で、飴(譲歩)と鞭(弾圧)の政策にその類例が見られる。なお、この考え方は現代の世界でも、アメリカを初めとする大国の政策の中にしばしば取り入れられているものでもある。

三つの思想の対比
儒家が学問修養に努力して、いわゆる「仁」「義」の道徳を追究し実践しようとする積極的な考え方をしているのに対して、道家は消極的な立場に立って、反面の理を説いている。儒家が正面から人生に取り組んでいるまじめさに対して、道家はそれを冷笑しているように見える。積極に対する消極、肯定に対する否定、人為に対する無為、そうしたものが儒家と道家の差異である。また、韓非の思想は、人情の裏面を鋭く追求している点で道家と通ずるところもあるが、これを儒家と比較するとき、儒家の礼儀道徳主義に対して、韓非は法治の絶対を唱えるもので、ここには冷酷な人間性を見るのである。ただ、儒家が時代の推移に関係なく、道徳を追求する古来の理想主義的な立場を取るのに対して、法家は移りゆく新しい時代に着目し、現実に適応する考え方を主張しているところに大きな違いがある。韓非の思想は、儒家の思想を時代錯誤と非難して、新時代に適応する政治は法治にあるとしているところに大きな特色がある。後世には儒家が栄え、法家が衰えることになったが、その原因はどこにあったのだろうか。それは、儒家が暖かい人間性に立って人の善意を信じたのに対して、法家は冷酷な非人間性に立って法治主義に徹しすぎたためにそうなったのではなかろうか。

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