『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』の創作のモティーフ

恩田 満

 萩原朔太郎は、近代日本を代表する詩人であり、口語自由詩と象徴詩とを結合させた異色の作風で、新たな叙情詩の世界を築き上げた。朔太郎は、本格的な試作活動に着手する前から北原白秋の主催する雑誌「ザンボア」に詩や短歌を発表していたが、1916年29歳の時に詩人室生犀星と詩誌「感情」を創刊するとともに、反自然主義的な立場にたって旺盛な試作活動に入った。翌年に刊行した処女詩集『月に吠える』は、詩壇から絶賛され、23年の第二詩集『青猫』で詩人としての地位を不動のものにした。25年には『純情小曲集』を刊行したが、これらの詩群を通じて近代叙情詩の頂点に立った。
朔太郎は、1925年38歳の時、13歳年下の妻稲子と4歳・2歳の娘を連れてこれまで生活していた群馬県の前橋から東京の大井町に転居した。それまでは富裕な開業医であった父親に経済的な援助を受けて田舎でのんびりと試作に励んでいたが、大都会東京に移っても経済的な自立にまでは至らなかった。田舎から都会へという憧れの実現と両親から離れて生活する精神の自由は得られたものの、朔太郎はいくつかの苦悩を抱えていた。一つはままならぬ経済的自立の問題であった。すでに後世に残る代表的な詩集を発表し、詩の世界では大いに注目を浴びてはいたものの、その原稿料として懐に入る収入は生計を営むまでには至っていなかった。もう一つは、妻との家庭生活の問題であった。妻の稲子はまったく家事に疎く、育児もままならない女性であった。13歳年上の朔太郎とは、なかなか心を開いて語り合うこともなく不満を心に秘めたまま日々を過ごしていた。都会の華やかさや西洋へのあこがれを持っていた朔太郎は、その後大森に転居するとともに、妻の稲子の気持ちを汲んで一緒にダンスホールに通うようになった。これが後に大きな問題を引き起こすことになったのである。稲子は、ダンスから大いなる刺激を受け夢中になるにつれて、生活が放縦になり家庭をまったく顧みないようになっていった。西洋的な夫婦の自由な生活を標榜していた朔太郎も、あまりにも自堕落な妻の生き方に激しい怒りを覚え、ついには離婚という道に進むのであった。それは1929年、朔太郎42歳、稲子29歳の時であった。このことは朔太郎の心に暗い影を落とすことになった。
さて、『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』の書かれた頃の社会的な背景について触れることにする。この小品は、35年に発表されたが、ぞの四年前の31年には満州事変が勃発し、日本に対する国際社会の批判が高まっていった。日本は33年に国際連盟を脱退したが、その頃すでに中国大陸に対する侵略を大々的の開始していた。一方、国内では32年に急進派の青年将校が犬養毅首相を暗殺するという5.15事件が起こり、日本のファシズムが台頭してくる契機となった。その後の日本はまっしぐらに軍国主義に突き進んでいくわけだが、暗く重苦しくかつ不気味な流れが時代の変化に敏感であった朔太郎に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。
朔太郎は、子どもの頃から暴力的なものを忌避しており、成人してからも最大の暴力装置とも言うべき軍隊には強い嫌悪感を持つようになっていたが、23年に刊行した最初の詩集『青猫』に次のような一編の奇妙な詩がある。

◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎

 軍    隊
通行する軍隊の印象

この重量ある機械は/地面をどっしりと圧へつける
地面は強く踏みつけられ/反動し/濛々と埃をたてる
この日中を通つてゐる/逞しい機械を見よ
くろがねの油ぎった/ものすごい頑固な巨体だ
地面をどっしりと圧へつける/巨きな集団の動力機械だ。
づしり、づしり、ばたり、ばたり、
ざっく、ざっく、ざっく、ざっく。

この凶逞な機械の行くところ/どこでも風景は褪色し
黄色くなり/日は空に沈鬱して/
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、ばたり、ばたり、
ざっく、ざっく、ざっく、ざっく、
お一、二、お一、二。

(中略)

暗澹とした空の下を/重たい鋼鉄の機械が通る
無数の拡大した瞳孔が通る/それらの瞳孔は熱にひらいて
黄色い風景の恐怖のかげに/空しく力なく彷徨する。
疲労し/困憊し/幻惑する。
お一、二、お一、二/歩調取れえ!

この「軍隊」という詩は、『青猫』の最後に一編だけ浮き上がったような形で置かれている。これをのぞくすべての詩が浪漫的・叙情的な色合いをもっているので、詩集全体としてとらえると奇異な感じを抱かざるを得ない。さらにこの詩は、他の詩の「片恋」「夢」「春宵」といった浪漫的な題名とは大きく異なっているばかりでなく、題名の前に「◎◎◎」というような意味不明の記号が九つも醜く並んで置かれているのである。この記号の意味するものが果たして軍隊なのか、それとも別の意味合いを持っているのかはわからないが、朔太郎自身はこの詩をあまり気に入っていなかったようだ。彼は、『青猫』の追記の中で、「最後の一編『軍隊』は、私として不愉快だったから削るつもりだったが、室生犀星氏と佐藤春夫氏に激賞されたので出す気になった。自分で嫌いな作は人に誉められ、自分の好きな作は人から認められない。奇体なものである」と書いている。この場合、朔太郎がこう述べたのは、おそらく一冊の詩集としては統一性に欠けるという意味であったろう。他の作品がすべて先に述べたように浪漫的で非現実的な美しい世界をあらわしているのに対して、この作品はきわめて現実的な醜い世界を恐ろしいまでのリアリティーを備えて表現されている。
朔太郎にとって、「濛々とする埃をたて」、機械的に行進していく兵士の集団は、人間性を感じさせない「くろがねの油ぎった/ものすごい頑固な巨体」であり、周囲の美しい風景を一変させる「凶逞な機械」であった。彼は現実的な軍隊の行進の中にきわめて醜悪なものを見いだしたのである。この詩からは軍隊に対する否定的な嫌悪感が容易に読み取れる。
『青猫』の大半は、叙情的な詩が収められており、非現実的な世界の美しさが表現されているが、最後のこの一編では、現実的な世界の恐ろしいまでの醜さが表現されている。朔太郎は、厭戦・反戦の気持ちをこの詩で言い表したかったのであろうが、併せてロマンティシズムとリアリズムの対比という効果をもねらって、この詩を最後に置いたのではなかろうか。
さて、この辺で本稿のテーマである『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』の創作のモティーフに移ることにする。まとめる上での焦点としては、前述したこれまでの内容を踏まえて、朔太郎の、軍隊や戦争に対する感じ方と、原田重吉という人物像の描き方に置くが、それに先だって、この作品の舞台となった日清戦争前後の時代の世相を作品から引用するとともに、この作品を発表した時代背景とを関連づけながら述べていくことにする。日清戦争の前後には、中国人に対する蔑視の思想が軍国的な国家の指導のもとにさまざまな方法を通じて醸成されていた。本文から引用すると、中国を「暴虐非道の野蛮国」と位置づけ、中国人を「恨み重なるチャンチャン坊主」と蔑視した。主人公の原田重吉が上官の命を受け玄武門の内部に突入した場面では、「辮髪の支那兵たちは、もの悲しく憂鬱な姿をしながら、地面に趺座して閑雅な支那の賭博をしていた。しがない日傭人の兵隊たちは、戦争よりも飢餓を恐れて、獣のように悲しんでいた。彼ら上官たちは、頭に羽毛の着いた帽子を被り、陣営の中で阿片をすっていた」と表現されている。事実の問題として、戦争の真っただ中においてそのような中国兵がいたとはとうてい想像できない。こうした描写には、朔太郎自身が中国人蔑視の思想を持っていたのではないかと思われるほど無力な兵士の姿が現れているが、ここには人物像のリアリティーという点が欠如している。朔太郎がなぜこれほどまでに中国兵の惨めさを描いたのかはわからないが、これ以外にも、リアリティーの欠けた表現として、「(重吉)門の閂に双手をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。(中略)彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭や腕をヘシ折るのだった。『それ、あなた。すこし、乱暴あるネ。』と叫びながら、可憫そうな支那兵が逃げ腰になったところで、味方の日本兵が洪水のように侵入してきた」という一節が目に付く。玄武門の閂が鉄製であったのか木製であったのかはわからないが、それを引き抜き次から次にと中国兵を打ち倒すのは、伝説の人物武蔵坊弁慶ならいざ知らず、とうていかなわぬ技である。敵に突入され窮地に陥った中国兵の態度も奇妙である。戦うことすらせず「それ、あなた。すこし、乱暴あるネ」といって逃げ出す状況は噴飯ものである。このあたりの描写から非現実的な英雄としての原田重吉と、存在感を持たない中国兵の姿が浮かび上がってくる。両者の非現実的な状況は滑稽なまでに誇張されて表現されている。戦争というきわめて現実的な状況をあえて非現実的に描いた朔太郎の意図はどこにあったのだろうか。
朔太郎は、この小品とほぼ同時期に書いた『猫町』という作品の冒頭近くで「久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである」と、主人公の心情の吐露という形で、朔太郎は自分自身の意識の一端を述べている。夢と現実との狭間、あるいは夢の世界と現実世界との相克というテーマは、彼が一貫して詩の世界で追求してきたものである。現実と非現実の間の往来の中に何らかの真実を見いだそうとしたのかもしれない。このテーマは、萩原朔太郎という大詩人を研究していく上で重要な要素を占めるかもしれないが、専門家でない私がこの小論で述べることはとうてい出来ない。ここでは単純に現実と非現実の対立という軸を持ち出してモティーフを解くことを試みたい。
『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』の(下)に描かれている戦後の原田重吉の人物像は、実在した原田重吉の人物像と酷似している。その一部を引用しつつ、明治37年の「平民新聞」の記事と対比してみたい。「平民新聞」には、「彼の原田重吉君は戦役終りて後生活の途に窮し窮余戦争の名誉にて飯を食わんとの考を起し遂に旅役者となるに至りしに世人は堕落したりとて彼を攻撃し攻撃の火の手盛んとなりし結果彼は生命を的にして得たる其の勲章等を取り上げられ十年後の今日は人の其の名も知るものだに稀なるに至りたり」とあった。そして、『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』(下)にも、「次第に彼は放蕩に身を持ちくずし、とうとう壮士芝居の一座に這入った。田舎まわりの舞台の上で、彼は玄武門の勇士を演じ、自分で原田重吉に扮装した。(中略)だが心ある人々は、重吉のために悲しみ、眉をひそめて嘆息した。金鵄勲章功七級、玄武門の勇士ともあろう者が、壮士役者に身をもち崩して、この有様は何事だろう。次第に重吉は荒んでいった。賭博をして、とうとう金鵄勲章を取り上げられた」とある。新聞がすべて真実を書いているとも限らないが、この記事を信頼すれば、朔太郎の描いた原田重吉にはリアリティがある。
以上の点をまとめてみると、嫌悪すべき戦争を描くときの非現実性、単純な一人の人物を描くときの現実性という点が浮かび上がってくる。朔太郎は、しばしば重要な事柄について描写しようとするときに非現実的な装いを凝らし、比喩的・暗喩的な手法で表現することを好んできた。そうした朔太郎の手法とこの小品を書かれた時代の風潮などを考えて本稿のテーマと重ねると、次の結論が導き出されてくる。「朔太郎はやはり厭戦あるいは反戦の気持ちを持ち、その一端を吐露するためにこの作品を書いたのではないだろうか」と。
創作のモチーフの一部はここにある。もう一つのモティーフは、リアリティーと夢の中のような幻想の世界との対比を表現したかったのであろう。これは彼の詩作に見られる幻想的な雰囲気とも小説『猫町』の世界とも共通するものを見いだすことが出来るが、紙数の関係もあってここでは詳しく例を挙げながら述べることは出来ない。ただ、最後にほぼ同時代の詩人であった高村光太郎の当時に作られた詩と対比しつつ、本稿のまとめとしたい。

シ ン ガ ポ ー ル 陥 落
シンガポールが落ちた。/感謝の思に手がふるへる。
シンガポールが落ちた。/印度洋の波のやうに胸がゆれる。
シンガポールが落ちた。/残虐の世界性覇者をつひに破った。
シンガポールが落ちた。/傲慢なアングロ サクソンをつひに駆逐した。
シンガポールが落ちた。/大東亜の新らしい日月が今はじまる。
シンガポールが落ちた。/大東亜のもろもろの民よ、共にきけ。
ああ、シンガポールがつひに落ちた。

真  珠  湾  の  日
詔勅を聞いて身ぶるひした。この容易ならぬ瞬間に/
私の頭脳はランビキにかけられ、/
昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となった。
天皇あやふし。
ただこの一語が私の一切を決定した。

高村光太郎は、芸術家であっても芸術という手段によって、この戦争に協力すべきだという自覚で、自発的かつ積極的に軍国主義を支持したのである。これ以降、光太郎は一点のやましさも感じることなく戦争協力詩、愛国詩を書いていく。ただ、この詩は高名な詩人高村光太郎の作としては、彼の詩の特徴としてふつうに挙げられる溌剌さもなければ高邁な精神もない、さらにまた一縷の叙情もない。ただただ「シンガポールが落ちた」という事実に狂喜し、この一句を滑稽なまでに繰り返すばかりで、まったく冷静さを失った詩である。最低で無惨なできあがりと言わざるを得ない。
戦後になって光太郎は、多くの文学者や知識人たちから侵略戦争への協力を厳しく批判されることになった。彼はその後、戦争協力を自己批判し、1947年に雑誌「展望」に「暗愚小伝」を発表した。次の詩は、それに載せるために書かれたものである。なお、彼はその後、詩人としての筆を断った。

わ が 詩 を 読 み て 人 死 に 就 け り

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。/電線に女の大腿がぶらさがった。
死はいつでもそこにあった。/死の恐怖から私自身を救ふために/
「必死の時」を必死になって私は書いた。その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かった。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送った/
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

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