『漱石文芸論集』「文学論・序」

恩田 満

【英国留学前後の事情】
明治三十三年九月から始まる英国留学は、漱石の人生に決定的な影響を与えたと考えられている。文部省の給費留学生として二年あまりにおよぶロンドンでの生活は、森鴎外のドイツ留学とは全く異なり、漱石を孤独で思索的な学究の徒にさせた。また、当時の日本人の多くが持っていた西洋コンプレックスに漱石もまた陥ったが、それを克服しようとして、ひたすら文献を収集し読みあさった。一方では、その反動として漢文学に回帰する内面の葛藤もあった。漱石は「下宿籠城主義」ともいうべき状況に自分を追い込み、読書三昧にふけった。この時期に漱石は、自己自身の学問的・思想的体系の構築を決心したと考えられている。後に『文学論』(大倉書店刊。明治四十年五月)にまとめられる英文学への深い造詣はここで育まれ、漱石の生涯にわたる倫理的課題ともいうべき「個人主義」についても、この留学生活の中で認識され、深められていった。漱石の英国留学時代には、鴎外の留学に見られる華やかではつらつとした青春のようなものは全く感じられない。むしろ、強靱な意志を備えた人間が往々にして見せる暗い孤独な匂いが漂っている。ロンドンであるいは東京で、「漱石発狂」のうわさが立ったが、こうした点にも由来したのだろう。
明治三十六年一月、親友正岡子規の訃報に接し衝撃を受けたが、漱石は再び日本の土を踏むこととなった。帰国後すぐに第一高等学校(東京大学の前身)と東京帝国大学の講師を兼任した漱石は、学生の不評を買ったり、強度の神経衰弱にも悩まされたりしたが、熊本の五高時代からの門下生である寺田寅彦(物理学者・随筆家・俳人。東大教授。尺八の音響学的研究・雪の結晶の研究などで有名)はじめ、鈴木三重吉(作家・児童文学者。児童文学雑誌『赤い鳥』創刊)、小宮豊隆(独文学者・評論家・学習院大学教授。著書に『夏目漱石(一・二・三)』がある)、森田草平(小説家。著書に『煤煙』『輪廻』がある)らに囲まれながら文学的なサロン「木曜会」を催すことで心を慰めたりした。これらの若い門下生たちとの話し合いはさまざまな悩みを持つ漱石にとって数少ない慰安の場であった。

【「文学論・序」の概略】

  1. 英国留学の事情(P8・L4〜P9・L2)
  2. ケンブリッジ・オックスフォードで学ばない理由(P9〜P10・L10)
  3. 語学学習か文学の研究か(P10・L12〜P11・L9)
  4. ロンドンの「ユニバーシティー・カレッジ」で学び始めるいきさつ(P1? 1・L10)
  5. 若き日の漢学の学習と英文学(P13・L4〜L6)
  6. 漢籍の読解力と英語の読解力(P14・L9〜L13)
  7. 文学への傾倒。「文学とはいかなるものぞ」(P15・L2〜L15)
  8. 東大で英文学を講義するに至る事情(P16・L7〜P17・L10)
  9. 東大での講義の評判(P18・L1〜L2)

[10] 『文学論』出版に事情とこの書の執筆の意図(P18・L6  〜P19・L10)
[11] ロンドンでの生活の自嘲的回想と不快感(P19・L13〜P20・L4)
[12] 『文学論』の内容に関する自負(P21・L8〜L12)
[13] 「神経衰弱」ゆえの旺盛な執筆意欲(P22・L2〜L7)

【語注】
注 1「上田万年(うえだかずとし)」…言語学者・国語学者。東大教授。西欧の言語学研究方法を紹介、国語政策に種々の提言をした。「大日本国語辞典」編纂。(1867〜1937)
注 2「オクスフォード」…オックスフォード大学。オックスフォード市にある。イギリス最古の大学。起源は12世紀にさかのぼり、独自の歴史と伝統を誇る多数の寄宿制の学寮(カレッジ)から成る。ケンブリッジ大学とともにイギリス指導階層の最高教育機関。
注 3「ケムブリッジ」…ケンブリッジ大学。ケンブリッジ市にある。起源は12〜13世紀頃にさかのぼる。オックスフォード大学と同様に、多くの学寮(カレッジ)から成る。オックスフォード大学とともにイギリス指導階層の最高教育機関。
注 4「角兵衛獅子」…越後獅子。越後の国(今の新潟県)から出た獅子舞。子どもが小さい獅子頭をかぶり、身をそらせて逆立ちで歩くなどの芸をしながら、金銭を乞い歩く。
注 5「コレジ」…ケンブリッジ大学の学寮。
注 6「大学の聴講」…明治三十四年二月9日付け、加納亮吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎宛の書簡に、「University College へ行って英文学の抗議を聞いたが(中略)時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった」とある。
注 7「私宅教師」…前記の書簡に続いて「同時に Prof. Ker の周旋で大学に通学すると同時に Craig という人の家へ教わりに行く」とある。
注 8「少時」…漱石は明治十四、五年頃、二松学舎で漢学の勉強をした。当時のことは談話「落第」に語られている。
注 9「左国史漢」…「春秋左氏伝」と「国語」と「史記」と「漢書」。中国史書の代表的なもので、日本では平安朝以来、文章家の必読書とされた。
注10「西の方松山に赴き」…明治二十八年(1895)四月、愛媛県尋常中学校の教員として親友正岡子規のいる松山に赴任した。月給は八十円(当時の校長が六十円)であった。漱石は、ここでの体験を素材に『坊っちゃん』を書いた。
注11「西の方熊本にゆけり」…明治二十九年(1896)四月、熊本県にある第五高等学校(現在の国立熊本大学)の英語の講師として招かれたが、その七月には教授に就任。明治三十二年には大学予科英語主任、三十三年には教頭心得となる。
注12「大塚保治」…美学者。漱石が憧れた女性といわれる大塚楠緒子(おおつかくすおこ・小説家・美学者。1875〜1910)の夫。(1868〜1931)
注13「講義の当時は〜」…漱石の講義「文学論」は学生の間で評判がよくなかった。その原因の一つは、前任講師小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の情緒豊かな鑑賞的な講義の後をうけて、漱石の「文学論」は、学生たちには、あまりにも理論が多くて冷静で、文学とは縁遠いものに思われたらしい。そういう事情は、金子健二『人間漱石』(昭和二十三年、いちろ社)に詳しく述べられている。当時英文科一年生であった金子は、漱石が初めて東大の教壇に立った第三学期から始めた「英文学形式論」、つづいて二年生の第一学期からの「文学論」(共に「英文学概説」という題目で行われた)の講義に、足掛け三か年間出席した。『人間漱石』は、その間彼が「日記は私の人生のページである(82頁)として丹念に記していた日記を主体としたもので、ハーンの留任運動の余波、「文学論」が不評で、小山内薫や河田順らが講義に出席しなくなったこと、石川林四郎が漱石をやりこめる一齣、やがてシェイクスピア講義が次第に漱石に対する評価と信頼を高めてゆき、『マクベス』講義は満員札止めの盛況となり、「文学論」も人気を得るようになった状況などを伝えている。
注14「文学論」…「漱石がロンドンで池田菊苗に會つたといふことは、漱石の生活にとつて一大事件であつた。漱石はその為め「文學論」著述の一念を發起するとともに、外國文學に對する獨立戰爭の宣言であったとすれば、その宣言の口火を切つたものは、池田菊苗だつたからである」(小宮豊隆『夏目漱石二』36「文学論」P77)。また、漱石の談話筆記『處女作追懷談』の中には、「然し留學中に段々文學がいやになつた。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない。それを無理に嬉しがるのは、何だかありもしない翅を生やして飛んでる人のやうな、金がないのにあるやうな顏して歩いて居るやうな氣がしてならなかつた所へ池田菊苗君が獨乙から來て、自分の下宿へ留まった。池田君は理學者だけれども、話して見ると偉い哲學者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢つたのは、自分には大變な利益であつた。御蔭で幽靈の樣な文學をやめて、もつと組織だつた研究をやらうと思ひ始めた」とある。
注15「中川芳太郎」明治三十九年東京帝国大学英文科を卒業し、第八高等学校(名古屋大学の前身)の教授となった門下生。
注16『漾虚集』…『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』『琴のそら音』『一夜』『薤露行(かいろこう)』『趣味の遺伝』を集め、明治三十九年五月に大蔵・服部書店から出版されたもの。
注17『鶉籠』…『坊っちゃん』『二百十日』『草枕』を集め、明治三十九年十二月に春陽堂から出版されたもの。

* 著者の許可なく無断転載することを禁じます。 


Copyright 2002 Mituru Onda. All rights reserved