『硝子戸の中(抄)』について

                         恩田 満

成立の時期
 『硝子戸の中』は、大正四年一月十三日から二月二十三日まで、途中三日間の休載をはさんで、三十九回にわたって朝日新聞に掲載された。漱石がこの随筆の執筆を開始したのは一月四日であったが、その後二月十四日までほぼ毎日一回分のペースで書き続けたことが日記などからうかがい知れる。漱石は、掲載の十日ほど前から準備をして推敲を重ねていたようだ。この時期の漱石は、朝日新聞社の中で華々しかった入社当時に比べてかなり居心地が悪かったようだ。江藤淳は『漱石とその時代 第五部』の中で「社内的には、漱石にはかつての池辺三山のような有力な庇護者もなく、ことに『修善寺の大患』以来は、病気ばかりしている落ち目の小説家にすぎない」と述べている。漱石は、新聞社からの今回の依頼に対して、読者の好反応を得なければならないというプレッシャーを感じていたことだろう。序にあたる(一)に「小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それが又私に取っては思い掛けない人で、私の思い掛けない事を云ったり為たりする。私は興味に充ちた眼をもってそれ等の人を迎えたり送ったりした事さえある。私はそんなものを少し書きつづけてみようかと思う。私はそうした種類の文字が、忙しい人の眼に、どれ程つまらなく映るだろうかと懸念している」とあるように、漱石は、読者の反応を意識していたようだ。
 当時の時代的な背景の一端が(一)の中で「去年から欧洲では*大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争が何時済むとも見当が付かない模様である。日本でも*その戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は*議会が解散になった」と述べられている。
 この年漱石は、三月に京都を旅行したが、胃潰瘍が悪化して寝込むこととなった。六月から九月までは『道草』を朝日新聞に連載した。翌年一月十八日から二月十六日までリューマチ療養のため、湯河原の温泉に逗留した。四月には糖尿病と判断され三ヶ月間にわたってその治療を受けた。こういう満身創痍ともいうべき状態で、五月二十六日から朝日新聞に『明暗』の連載を始めたのである。限られた長さの文章を毎日執筆しなければならないという過酷な状況が、十一月二十八日と十二月二日の二回にわたる大内出血を誘発し、漱石は絶対安静のまま九日に亡くなってしまった。慶応三(1867)年に生まれ、大正五(1916)年に亡くなった漱石にとっては『硝子戸の中』がまとまった最後の随筆となった。

  1. 大きな戦争…大正三年に始まった第一次世界大戦。七月二十八日にオーストリアがセルビアに宣戦布告したのを皮切りに、ドイツ、ロシア、フランス、イギリスが参戦して、戦争は全欧州に拡大した。
  2. その戦争の一小部分を引き受けた…大正三年八月二十三日、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告をした。日本の軍事行動は東シナ海に局限されたが、中国の青島や南洋のボナペ、パラオ、トラック、サイパン等のドイツ領を占領した。
  3. 議会が解散になった…大正三年十二月、大隈内閣と多数派の野党政友会が対立し、議会は解散した。総選挙は四年三月二十五日であった。

『硝子戸の中』の内容上の特徴
 『硝子戸の中』は、『こころ』(大正三年四月から八月まで朝日新聞に連載)と『道草』(大正四年六月から九月まで朝日新聞に連載)の間に書かれた随筆であったが、成立順でその中間に位置したばかりでなく、両作品の主題を橋渡しをするものとなった。すなわち『こころ』のテーマの一つになった「自殺あるいは生と死」と、自伝的な小説『道草』に見られる「解決の難しいこと」とをつなぐ意味あいを持っている。
 『硝子戸の中』の、テーマは大きく分けて二つ見られる。全体を通じて死に関する描写が多いが、とくに前半部分ではたびたび「死」についてのことが書かれている。後半部分では「死」に関することに加えて、「解決の難しいこと」が描かれている。では、それらについて順を追って見ていくことにする。全三十九回の掲載のうち、十五回ぐらいまでは、ほとんどが近い過去を題材にとったものだが、そのなかで「生と死」の問題がたびたび語られている。
 最初の「死」は、飼い犬のヘクトー(三、四、五)である。病気になっても家の者の注意をひかず、誰にも面倒を見てもらえないまま死骸となって池に浮かんだヘクトーの孤独な死を哀れんで、漱石は「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句にこめた。漱石自身の病状の重さや孤独な思いと重なって胸を打つものがある。次は、「悲しい身の上話」を漱石に打ち明けながら、それを作品に書いてほしいと頼む女とそれに対する漱石の思いを述べたところ(六、七、八)にも「生と死」の問題が述べられている。(七)は、次のように書き出されている。
  
   女の告白は聴いている私を息苦しくした位に悲痛を極めたもの  であった。彼女は私に向ってこんな質問を掛けた。――
  「もし先生が小説をお書きになる場合には、その女の始末をどう  なさいますか」
  私は返答に窮した。
  「女の死ぬ方が宜いと御思いになりますか、それとも生きている  ように御書きになりますか」
  私は何方にでも書けると答えて、暗に女の気色をうかがった。女  はもっと判然した挨拶を私から要求するように見えた。私は仕方  なしにこう答えた。
  「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにし  ていて差支えないでしょう。然し美くしいものや気高いものを一  義において人間を評価すれば、問題が違ってくるかもしれません  」

 漱石は(八)の冒頭部分で生と死について、次のように述べている。

   不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時  か一度到着しなければならない死という境地に就いて常に考えて  いる。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり  信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態  だと思う事もある。
  「死は生よりも尊とい」
  こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
 
 前述の女については、(八)の後半で次のように述べている。

   その人はとても回復の見込みのつかない程深く自分の胸を傷つ  けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美く  しい思い出の種となってその人の面を輝かしていた。
  彼女はその美くしいものを宝石の如く大事に永久彼女の胸の奥に  抱き締めていたがった。不幸にして、その美くしいものは取も直  さず彼女を死以上に苦しめる手傷その物であった。二つの物は紙  の裏表の如く到底引き離せないのである。

 これまでのところから、漱石の生と死に対する考え方を考察してみると、死に対しては悼む気持ちを持ちつつも、苦しい現実の生に対して、死は美的で尊いものであると捉えているように思える。だからといって漱石自身が死を待ち望んでいるわけではない。いわゆる「修善寺の大患」(明治四十三年八月)で人事不省の危篤状態になって以来、自分の死を身近に感じるようになった漱石は、遠くない将来に自分に訪れるであろう死という運命を直視するようになった。そんな矢先にまた一つの死があった。それは以前から俳友として親しくしていた長塚節の死であった。『硝子戸の中』を書き終わる少し前、二月八日に長塚節が旅先で病死した。漱石はその死を悼む手紙を、二月十三日に門間春雄に宛てて「私は若い人が死ぬのを甚だ悲しく考へては自分の生きてゐるのが済まないと思ふ事もあるのです」と書いている。さらに、二月十五日には、畔柳都太郎に宛てて、「『硝子戸の中』を昨日切り上げたあとで御手紙が参りました。それであの問題(何であるかは不明)はまあ書かずに起きませう。私は死なないでいるといふのではありません。誰でも死ぬといふのです、さうしてスピリチュアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも何とも考へてゐないのです。唯私は死んで始めて絶対の境地に入ると申したいのです。さうして其絶対は相対の世界に比べると尊い気がするのです(此尊いといふ意味を此間議論しにきた人があつて弱りましたが)」とも書いている。
 (十六)(十七)は、少年時代の思い出を述べた部分であるが、漱石は床屋の姪の死を知り、床屋の亭主は漱石の従兄の死を知り、「私は帰って硝子戸の中に座って、まだ死なずに居るものは、自分とあの床屋の亭主丈のような気がした」(十七)と結んでいる。この書き方を見るとこれらの二つの死に対して同情や悲しみは感じられない。死の事実が書かれているだけで、哀悼の気持ちは述べられていない。むしろ生きながらえている自分自身を自嘲的に捉えているように思える。また、(二十二)でも漱石は死を扱っている。

   私の立ち居が自由になると、黒枠のついた摺物が、時々私の机  の上に載せられる。私は運命を苦笑する人の如く、絹帽などを被  って、葬式の供に立つ、俥を駆って斎場へ駆けつける。死んだ人  のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯  が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交じっている。  私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なもの  だと考える。多病な私は何故生き残っているのだろうかと疑って  みる。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う  。

 さて、もう一つの主題である「解決の難しいこと」についても簡単に触れよう。(三十)の冒頭部分には、次のようなことが述べられている。漱石は、これまで訪問客の発する「もう御病気はすっかり御癒りですか」という問いに対して「ええまあどうかこうか生きています」と答えていたが、ある時やってきたK君から「そりゃ癒ったとはいわれませんね。そう時々再発するようじゃ。まあ故の病気の継続なんでしょう」言われる。漱石はそのことばに続けて次のように書いている。
   
   この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたよう  な気がした。それから以後は、「どうかこうか生きています」と  いう挨拶を已めて、「病気はまだ継続中です」と改めた。そうし  てその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合に  出した。「私は丁度独乙が聯合軍と戦争をしているように、病気  と戦争をしているのです。今こうやって貴方と対坐していられる  のは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入っ  て、病気と睨めっくらしているからです。私の身体は乱世です。  何時どんな変化が起らないとも限りません」
   或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。或人は黙  っていた。また或人は気の毒らしい顔をした。客の帰ったあとで  私はまた考えた。――継続中のものは恐らく私の病気ばかりで  はないだろう。私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解ら  ないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする  人、――凡てこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自  分たちさえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいる  のではなかろうか。
 
 さて、この「継続・継続中のもの」について、後続の作品『道草』と関連づけて述べることにする。『道草』(八十二)には、主人公健三の細君お住の出産のことが描かれているが、その中に次のような一節がある。健三は生まれたばかりの赤ん坊の顔を見て、この小さい肉の塊が今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。
  
  「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
  細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解  らなかった。(中略)
   彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職  になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息で斃れようと  してまだ斃れずにいる姉のことがあった。新らしい位地が入るよ  うでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他島田の事も  御常の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆な  まだ片付かずにいるという事もあった。
   また、(九十二)には、「ペネロピーの仕事」という言葉が登  場する。これは、ホメロスの長編叙事詩『オデュッセイア』の中  の挿話が起源であるが、「進んでいるようで終わりのない仕事」  を意味している。健三はこの言葉をつぶやいたあと、「何時まで  経ったって片付きゃしない」と溜息をついた。この「片付かない  もの」すなわち「継続・継続中のもの」については、『道草』の  最後にあたる(百二)で、これまで健三を悩ませてきた養父島田  との訣別を述べるくだりであらためてに繰り返される。
  「まだまだなかなか片付きゃしないよ」
  「どうして」
  「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女  だというんだ」
  細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
  「じゃどうすれば本当に片付くんです」
  「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事  は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分に  も解らなくなるだけのことさ」
  健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊  を抱き上げた。

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