『草 枕』小 論

恩田 満

一 『草枕』解題
 『草枕』は、明治三十九年九月「新小説」に発表された。舞台のモデルとなった場所は、熊本市からほど遠くない小天(現天水町)であり、漱石が執筆の五年前まで生活していた熊本時代の体験が素材として生かされている。
 『草枕』は、漱石の作品としては初期に属し、俳句的世界から散文的世界への過渡的作品として位置づけることができる。この作品を読んだ「大阪朝日新聞」の主筆鳥居素川は、作品の斬新さに感銘を受けてこれを絶賛するとともに、漱石をお抱えの作家として社に迎え入れようとした。素川は、『草枕』について、後に「唯の小説ではない。(中略)我等の論ずるところを君は小説で書いている。(中略)唯の人物ではない。仰げば蒼天、俯せば草枕、自分はこの時を以って君の筆に融合して仕舞った」と回想して述べているが、それほどまでにこの作品に惚れ込んでいたのである。『草枕』は、漱石が職業作家になる決意をするきっかけになった作品であると言うことができよう。
 この作品は、俳句の持つ軽妙洒脱さと飛躍的変化の妙を巧みに織り交ぜながら書かれているが、一方では、論理的で知識を誇示する難解な部分も少なくない。この作品が書かれた半年ほど前には、島崎藤村の『破戒』が出版されてたいへんな評判になっていた。『破戒』は、日本の自然主義文学の夜明けを告げる作品で、社会や人間の恥部を徹底的に追究し、それを飾ることなく写実的に描いたものだった。これに対して漱石は、知的な高い立場に立って、余裕のある小説を書いて見せようとした。写実主義・自然主義が当然のこととして人情を重視したのに対し、漱石はこの作品で非人情の世界を描こうとした。漱石は弟子の森田草平に宛てた同年九月三十日付けの書簡で、『草枕』の主人公の一人である「画工」のものの見方・考え方について、次のように述べている。

  1. 自然天然は人情がない。見る人にも人情がない。双方非人情である。
  2. 人間も自然の一部として見ればやはり同じ事である。
  3. 人間の情緒の活動をするときは活動する人間は大に人情を発揮する。見る人は(次の)三様になる。
  1. 全く人情をすてて見る。松や梅を見ると同様の態度。(これは一と二と同じ事に帰着する)
  2. 全く人情を棄てられぬ。同情を起したり、反感を起したりする。しかし現実世界で同情したり反感を起したりするのと異なる場合。即ち自己の利害を打算しないで純粋なる同情と反感の場合。(吾人が普通の芝居を見る場合)
  3. 現実世界で起す同情と反感を起して人間の活動を見る場合。(この場合が芝居などへ切り込むと時々見物人が舞台へ飛び上がって役者をなぐったりなどする。……)

 作品は、美しくのどかな春の風光を背景として、人物と自然を一体化させながら、画工と那美という二人の主人公の対話を通して、作者の芸術観、人生観が展開されている。漱石初期作品の、浪漫的な夢と詩的な美しさを持った代表作とも言えよう。この作品には、視覚的な要素が非常に多いが、それは漱石がねらいとしたところであった。一般の小説が時間的な流れを重視するのに対して、この作品は空間的な絵画のような広がりを重視したものであった。その意味では実験的な作品であった。

二 『草枕』の梗概
 一人の青年画家が俗世間の煩わしさから逃れて、非人情の世界に遊ぶことを願って旅に出た。画家は人事を主とした西洋芸術に対して、自然に基づく東洋芸術を高く評価する芸術観を持っている。画家は、春の山路を越えて那古井の温泉宿に着いた。その宿には那美という名の女性がいた。那美は心に染まない結婚をしたが、夫の家が破産したのを機に、実家に帰っていたのであった。那美は、美貌で才気あふれる勝ち気な女性である。三味線を弾き、参禅にも出掛ける女性だが、自分が池に身を投げて浮かんでいるところを絵に描いてくれなどと言っては、画家を驚かしたりもする。村人は彼女を「気狂い」と呼んでいるが、村の和尚は「訳のわかった」「機鋒の鋭い女」と評する。画家は那美の顔を絵に描きたいと思うが、那美の表情に何かが欠けていて絵にならない。ある日那美は、出征する従兄を駅まで送ることになったが、駅頭で零落した前夫と偶然に出合う。その時に那美が浮かべた顔一面の「憐れ」の表情を見て、画家は、胸中の画面でそれを成就させる。

 『草枕』についての先行研究
 『草枕』については実に多くの評論があるが、その中のいくつかを紹介してみることにする。
@ 片岡良一「夏目漱石の作品」(厚文社・昭和30年)…『破戒』やイブセン流の行き方の正しさを知っていながら、それにもかかわらずこういうところに一応は抜け出ていかずにはいられなかったほど、漱石にとっては当時の現実は暗く処置ないものであったわけだし、それだけこういう境地への思慕も痛切なものであったことが知られるのである。(中略)那美さんの表情の分裂は彼女の「不幸や苦悩」の反映であり、その「由来」をたどり、さらに彼女の行動を追ってみれば、この作の世界もまた普通の小説のそれとそれほど異なったものを持つとはいえない。
A 荒正人「漱石文学全集『草枕』解説」…漱石の美意識の大切な側面を伝えようとしている点では、貴重な収穫であった。画工の背後には俗世がある。それが具体的に何を意味しているかはふれられていない。だが戦争という事態は短いながらも鋭く扱っている。最後に、画工の恋愛観なども、非人情という理念を越えて、微妙な形で表現されていることもあげておきたい。ただし主眼はあくまで画工の非人情の理論であり、実践である。議論の多いことを気にしているが、今日から見れば、その点はむしろ強い特色になっている。
B 瀬沼茂樹「夏目漱石」(東京大学出版会・昭和37年)…漱石は、美意識による調和の世界が現実的生活においては危殆に瀕することを知らないわけにはいかなかった。知情意を没した超生命的世界として、画家の特殊な美意識によって仮構するところにはじまって、この世界にまで押し寄せてくる二十世紀――この世界の背景にある悲劇を瞥見するところに終わっている。
C 宮井一郎「漱石の世界」(講談社・昭和41年)…彼女(那美)とその夫の離縁はどんな経緯だったにせよ、所詮はどちらかの我執による利益社会的な理由からであろう。(中略)作品の最後に見せる「憐れ」の表情は、利益社会を脱した人格社会のものである。
D 久保田芳太郎「草枕―美について」(三弥井書店・昭和50年)…『草枕』には、漱石の生涯にわたる命題、すなわち、男と女の性、自我と超克、エロスと死、宗教と芸術、東と西などといった、いわばたがいに措定と反措定の相関関係にあるものの、二元の命題がすでに萌芽として見受けられるのである。
E 島内景二「『草枕』を読み直す」(ブリュッケ・平成12年)…古典で読み解く近代文学というサブタイトルが付いている通り、『伊勢物語』や『源氏物語』に見られる表現やイメージを『草枕』の取り込みながら分析していくもので、興味深い点は少なからず見受けられたが、とくに参考とはしなかった。

四 創作のモティーフ
 漱石は隆盛になりつつあった当時の自然主義文学の流れを意識してか、談話筆記「余が『草枕』」(明治三十九年十一月)の中で、この作品の創作の意図を次のように述べている。

   一体、小説とはどんなものか、定義が一定しているのか知らん。見たと  ころ、世間の真相を穿つたものを書く心理小説とか、一つの哲理を書き現  はす傾向小説とか、又は、走馬燈の如き世間の出来事を、何のプロットも  なしに、其まゝに写し出すものとか、その他いろいろの種類はあるが、此  等、普通に小説と称するものの目的は、必ずしも美しい感じを土台にして  ゐるのではないらしい。汚くとも、不愉快でも、一切無頓着のやうである  。(中略)私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味  で書いたのである。唯一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえす  ればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プ  ロットも無ければ、事件の発展もない。茲に、事件の発展がないといふの  は、かういう意味である。――あの『草枕』は、一種変わった妙な観察を  する一画工がたまたま一美人に邂逅して、之を観察するのだが、此美人即  ち作物の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立つてゐて、少しも動か  ない。それを画工が、或は前から、或は後から、或は左から、或は右から  と、種々の方面から観察する。唯それだけである。中心となるべき人物が  少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しやうがない。
   だから、事件の発展のみを小説と思ふ者には、『草枕』は分からぬかも  知れぬ。面白くないかも知れぬ。けれども、それは構つたことではない。  私は唯、読者の頭に、美しい感じが残りさえすれば、それで満足なので、  若し『草枕』が、この美しい感じを全く読者に与へ得ないとすれば、即ち  失敗の作、多少なりとも与へられるとすれば、即ち多少の成功をしたので  ある。
   また、私の作物は、やゝもすれば議論に陥るといふ非難がある。が、私  はわざとやってゐるのだ。もしもそれが為に、読者に与へるいゝ感じを妨  げるやうではいけないが、これに反して、却って之を助けるやうならば、  議論をしようが、何をしようが、構はぬではないか。要するに汚いことや  不愉快なことは一切避けて、唯美しい感じを覚えさせさへすればよいので  ある。
   普通に云ふ小説、即ち人生の真相を味はせるものも結構ではあるが、同  時にまた、人生の苦を忘れて、慰藉するといふ意味の小説も存在していゝ  と思ふ。私の『草枕』は、無論後者に属すべきものである。(中略)
   此種の小説は、従来存在してゐなかつたやうだ。また多く書くことは出  来ないかも知れぬ。が、小説界の一部に、この意味の作物もなければなら  ぬと思う。分かり易い例を取つて云へば、在来の小説は川柳的である。穿  ちを主としてゐる。が、此外に美を生命とする俳句的小説もあつても好い  と思ふ。(中略)で若し、この俳句的小説――名前は変であるが――が成  り立つとすれば、文学界に新しい境域を拓く訳である。この種の小説は未  だ西洋にもないやうだ。日本には無論ない。それが日本に出来るとすれば  、先づ、小説界に於ける新しい運動が、日本から起こつたといへるのだ。

 長い引用になったが、ここに『草枕』の創作のモティーフがはっきりと出ている。まず、小説の形式についての多様性について述べ、続いて従来の小説についての批判的な見解を加えている。とくに、醜いもの汚いものをえぐり出すように描く自然主義の小説に対するあからさまな不快感を強調している。続けて漱石は、「美を描く」小説の出現を主張し、プロットや事件の発展などを必要としない「美を生命とする俳句的小説」を自分は書きたいと言っているのである。もしそれが成功すれば、「小説界に於ける新しい運動が、日本から起こつた」ことになると誇らしげに述べている。なお、モティーフにつながるさらなる事柄については、各章の中で順次ふれていくことにしたい。

五 作品の展開
 『草枕』の全体の場面構成は、「那美」が登場するまでの一章〜三章が「余」の「問わず語り(一人称の語り)」で、「那美」が登場してからの四章以後が「物語的ナレーション(語り手の見た那美の人間像)」という二部から成っている。では、各章ごとにタイトルを付けてそれぞれに詳しい説明を加えることにする。

第一章 余が山道を登りながら峠の茶店に着くまで。
冒頭の一節はあまりにも有名だ。

   山路を登りながら、こう考えた。
   智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎  角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引き越し  たくなる。どこへ越しても、住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵  が出来る(岩波文庫・P7)。

 ここで山路を登りつつあるのは、画工だが、同時に「閑静で綺麗な田舎」を求めた漱石自身でもある。画工は続けて、

   越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか  、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人  という天職が出来て、ここに画家という使命が下る。(中略)住みにくき  世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写  すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である(P8)。

ともいうが、これは画工にとっての一つの理想でしかないだろう。なぜなら、彼は東京にいては詩や画によってもこの世の煩いをなくすことが出来なかったのである。だからこそ旅に出たわけである。画工の旅は

   淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、少しの間でも非人情の天  地に逍遙したいからの願(P15)。

によるのだが、画工はそれを「一つの酔狂だ」とも感じていた。那古井もまた人の世であることは自明であり決して非人情の世界ではないのである。

   芭蕉という男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした  。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さん  も婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こ  なして見よう(P16)。

 画工は、那古井で出会うすべてのものを人物を含めて非人情の世界に属するものとしてみようとしている。画工の意識の中には漱石自身の思いが鋭く投影されていると思えるが、では、『草枕』を書いた明治39年ごろの漱石はどんな状況にあったのだろうか。
 彼は内外に大きな危機を抱えていた。すなわち内的には激しい神経衰弱に悩まされ、外的には苦手意識を持ちながら一高および東大の教師を続けるが、一方ではさまざまな問題を抱える妻との夫婦生活の苦悩も抱えていた。これが彼にとっての現実であり俗世であった。だから、彼はその俗世の苦悩および危機から脱出しようとして、「美」を目的とした『草枕』のような世界に憧憬を持ち、そうした華麗な世界を描くことによって、自己の内外の危機を脱しようとしたのではなかろうか。その意味ではこうした点も「創作のモティーフ」として挙げられるだろう。

第二章 余が峠の茶店で聞いた那美のうわさ話(結婚の経緯と破局)。

   「おい」と声を掛けたが返事がない。軒下から奥を覗くと煤けた障子が  立て切ってある。向こう側は見えない。五六足の草鞋が淋しそうに庇から  吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つ許並ん  で、そばに五厘銭と文久銭が散らばっている(冒頭)。

 峠の茶店は、『草枕』では大事な位置を占める。ここは、現実の俗世界から離れた桃源郷とも呼ぶべき別天地への入り口であった。ここで画工は、老婆が口にする那古井の志保田の嬢様(那美)が話題として出て来る。

   「志保田の嬢様が城下の御輿入のときに、嬢様を青馬に乗せて、源兵衛  がはづなを牽いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年  で五年になります」(P28)(中略)
   「今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。それから  嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。世間では嬢様の事を不人情だ  とか、薄情だとか色々申します。もとは極々内気の優しいかたが、このご  ろでは大分気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します  。……」
   これからさきを聞くと、折角の趣向が壊れる。漸く仙人になりかけたと  ころを、誰かが来て羽衣を帰せ帰せと催促するような気がする。七曲がり  の険を冒して、やっとの思で、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に  引きずり下されては、飄然と家を出た甲斐がない。(P31)

 ここに「不人情」という言葉が出てきたが、すぐ直後に「薄情」という言葉が重ねて用いられているように「人情のないこと・情が薄いこと」の意味で用いられている。漱石の用いる「非人情」とは全くの別物である。では、このあたりで漱石のいう「非人情」の定義づけをしておくことにしよう。
 作品の中で最初にこの言葉が登場するのはすでに引用した「少しの間でも非人情の天地に逍遙したいからの願」(P15)である。この場合の「非人情」とは、非主観であり、『草枕』の中の言葉で言うならば「わかるだけの余裕のある第三者の地位」(P13)、すなわち「完全な客観」ということになるのだろうか。しかし、この「第三者の地位」と「完全な客観」とは内容的に重なる面が多いものの、同一ではない面も持っている。画工は、「勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続くわけには行かぬ」(P15)とも言っていた。これは、「非人情」という理想が相対的なものであるということであり、完全な「非人情」には徹しきれない不可能性を述べたものと考えられる。
 さて、茶店で聞いた那美のうわさ話に戻ろう。次の挙げる長良の乙女の話も幻想の世界への布石である。

  「嬢様と長良の乙女とはよく似ております」
  「顔がかい」
  「いいえ、身の成り行きがで御座んす」
  「へえ、その長良の乙女というのは何者かい」
  「昔しこの村に長良の乙女という、美くしい長者の娘が御座りましたそう  な」
  「へえ」
  「ところがその娘に二人の男が一度に懸想して、あなた」
  「なるほど」
  「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩った  が、どちらへも靡きかねて、とうとう
  あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
  という歌を詠んで、淵川へ身を投げて果てました」(P29)

 この歌は、『万葉集』<巻八・四一>にある日置長枝娘子の歌「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は思ほゆるかも(秋になると尾花の上に置く露のように、私の命も消えてしまいそうに思われますわ)」であり、また、「淵川に身を投げて果てました」の一節は、同じ『万葉集』<巻・三・四三二>の山部赤人の歌「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間のてこなが奥津城処(私も見た。人にも告げよう、葛飾の真間の手児奈のお墓のあるところを)」と、<巻・九・一八〇八>の高橋虫麻呂の歌「勝鹿の真間の井見れば立ちならし水汲ましけむ手児名し思ほゆ(葛飾の真間の井戸を見ると、いつも行き来をして水を汲んだという手児名のことが思い出されてくることよ)」などを踏まえて書かれたものと考えられる。「真間の手児奈(手児名とも)」は、下総葛飾郡真間にいたという伝説上の美女。多くの男子に言い寄られ、煩悶して投身。万葉集に山部赤人・高橋虫麻呂の追弔歌を載せ、その祠は千葉県市川市真間にある(広辞苑)。
 茶店の老婆の口を突いて出たこの歌は、真間の手児奈の伝説と重なって、悲しい死のイメージが感じられ、この後しばしば出て来る非人情の極地とも言うべき「死」をあらわす一連の表現とつながってくる。

第三章 余は那古井の宿でうつらうつらして幻覚を見るが、そのあとに那美が現れる。

 画工は茶店の婆さんから那古井の宿への道を教えてもらった。その宿こそが、うわさの女性である那美の実家であった。その宿に泊まった画工は、その晩に早くも妖しい雰囲気に捕らわれてしまう。その怪しい雰囲気は画工がかつて泊まった房州の宿の光景を思い起こさせた。具体的には「棟の高い大きな家」の「中二階」に案内されたところ、「掾板は既に朽ちかかって」おり、板庇の下から竹群が生い茂っている。庭は「一面の草原」で「垣も塀」もなく、宿がそのまま海につながっていたという。画工は「とうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪しげな蚊帳のうちに辛防しながら、まるで草双紙にでもありそうな事だ」と考えた。なお、「草双紙」については、岩波文庫の『草枕』の(注)P181には、「江戸中期から明治初期にかけて流行した通俗的な絵入りの読み物。非現実的な物語や怪奇な物語なども多かった」とある。画工は那古井の宿で、いつの間にか眠りに入ってゆく。この章では「夢」という言葉がたびた
び出て来る。

  すやすやと寐入る。夢に。
  長良の乙女が振り袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささ  だ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤに  なって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、美しい声で歌をうたう。  救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。女は苦し  い様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余  は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
  そこで眼が醒めた。脇の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆な夢を見たも  のだと思った。(P34)

 画工は夢を見ては醒め、醒めては夢を見るということを繰り返しながら、幻覚のようなものに引き込まれていく。そして、「月の光を忍んで朦朧たる影法師が居た」と那美とおぼしき姿を庭先に見る。翌朝になり目覚めて現実の世界の戻った画工が風呂に五分ほど入ってから出ようとして、

   身体を拭くのさえ退儀だから、いい加減にして、濡れたまま上って、風  呂場の戸を内から開けると、また驚かされた。
  「御早う。昨夜はよく寐られましたか」
  戸を開けるのと、この言葉とは殆ど同時にきた。人のいるさえ予期してお  らぬ出合頭の挨拶だから、さそくの返事も出る遑さえないうちに、
  「さあ、御召しなさい」
  と後ろへ廻って、ふわりと余の脊中へ柔らかい着物を掛けた。漸くのこと  「これは難有う…」だけ出して、向き直る、途端に女は二、三歩退いた。  (P42)(中略)
   この女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字に結  んで静かである。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨の  瓜実形で、豊かに落ち着きを見せているのに引き易えて、額は狭苦しくも  、こせ付いて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方  から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたる如く、ぴくぴく焦慮ている。鼻  ばかりは軽薄に鋭くもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。  (P44)

   「ほほほほ御部屋は掃除がしてあります。往って御覧なさい。いずれ後  ほど」というや否や、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気に馳けて行っ  た。頭は銀杏返に結っている。白い襟がたぼの下から見える。帯は黒繻子  の片側だけだろう。

第四章 余と那美との禅問答のようなの対話。

 画工が部屋に寝ころんで、銀杏返しの女(那美)の面影を思い浮かべていると、日頃愛唱していた英詩が浮かんできた

    Sadder than is the moon’s lost light.
    Lost ere the kindling of dawn,
    To travelers journeying on,
    The shutting of thy fair face from my sight.

    Might I took on thee in death,
    With bless I would yield my breath. (P53)

 (漱石の愛読したイギリスの作家メレディスの小説『シャグパットの毛剃り・1856』中の一挿話「バナヴァーの物語」のはじめに見える。妖美人バナヴァーの婚約者が毒蛇と戦って死ぬ直前に彼女に向かって歌ったもの。「旅人にとって暁の白む前に月光が失われてしまう以上に、あなたの美しい顔がわたしの前から消え失せることの方がもっとかなしい」、「もし死んでもあなたを見ることが叶うなら、わたしは至福をもってこの息を絶とう」 という意味。
 岩波文庫・注・P185)

 画工は、自分と銀杏返しの女の間柄をこの詩の中に当てはめ、自分たちの身に引きつけて興味深く空想している。すると、その空想を破るかのように突然部屋の襖が開き、銀杏返しの女が現れた。二人は禅問答のような対話を交わす。まず、女が画工に問いかける。

  「昨日は山で源兵衛に御逢いでしたろう」
  「ええ」
  「長良の乙女の五輪塔」を見ていらしったか」
  「ええ」
  「あきづけば、をばなが上に置く霜の、けぬべくもわは、おもほゆるかも    」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。何のためか  は知らぬ。
  「婆さんが教えましたか。あれはもともと私のうちへ奉公したもので、私  がまだ嫁に……」
  といいかけて、これはと余の顔を見たから、余は知らぬ風をしていた。
  (中略)
  「どうれで、六ずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は憐れ  な歌ですね」
  「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏みませんね。第一、淵川へ身を投  げるなんて、つまらないじゃありませんか」
  「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
  「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も男妾に  するばかりですわ」
  「両方ともですか」
  「ええ」
  「えらいな」
  「えらかあない、当り前ですわ」
  「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
  「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」(P59)

第五章 余は那美が若い僧に抱きつく奇矯な振る舞いをしたと床屋の亭主から聞く。
 床屋は昔から話し好きだと言われるが、ご多分に漏れずこの床屋も、画工が髯を当たりにいくと、次々に矢継ぎ早に話しかけてくる。一渡りした世間話が終わると、話題は志保田の出戻りの悪口になっていく。志保田の宿に長逗留しようという思いを持つ画工に向かって、床屋の亭主は語る。

  「あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事った。碌でもねえものに引っかか  って、どんな目に逢うか解りませんぜ」
  「どうして」
  「旦那あの娘は面はいいようだが、本当はき印ですぜ」
  「なぜ」
  「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂だっていってるんでさあ」
  「そりゃ何かの間違いだろう」
  「だって、現に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
  「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」(P66)

 亭主は、さらに続けて、観海寺の泰安という名の若い僧が志保田の出戻りに夢中になって恋文を送ったといううわさ話を持ち出してくる。その話によると、恋文をもらったその女は、若い僧と和尚さんが本堂でお経を上げているときに突然飛び込んできて、奇矯におよんだと言う。

  「ウフフフフ。どうしても狂印だね」
  「どうかしたかい」
  「そんなに可愛いなら、仏様の前で、一所に寐ようって、だしぬけに、泰  安さんの頸っ玉へかじりついたんでさあ」
  「へええ」
  「面喰らったなあ、泰安さ。気狂に文つけて、飛んだ恥を掻かされて、と  うとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」
  「死んだ?」
  「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
  「何ともいえない」
  「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴えねえから、ことによると生き  てるかも知れねえね」
  「なかなか面白い話だ」
  「面白いの、面白くないのって、村中おおわらいでさあ。ところが当人だ  けは、根が気が違ってるんだから、しゃあしゃあして平気なもんで……」  (P69)

第六章 余の物思いの内容。
 画工の思いは、漢文訓読文体のような表現で綴られていく。画工は人生のあるべき姿に思いを馳せ、画や詩がいかにあらんかを思う。音楽もまたしかり。画工の思いは、古今東西の芸術のさまざまな分野に広がっていく。ここでは、その一部の思いを引用するに留める。

   踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣も起る。戴くは天と知る  故に、稲妻の米噛みに震う怖も出来る。人と争わねば一分が立たぬと浮世  が催促するから、火宅の苦は免れぬ。東西のある乾坤に住んで、利害の綱  を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。目に見る富は土である。  握る名と奪える誉とは、小賢しき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜  の如きものであろう。いわゆる楽しみは物に着するより起るが故に、あら  ゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客なるものあって、あくまでこの待対世  界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清気を知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品  し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。  同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立す  べき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。(P76)

第七章 余が温泉に浸かっていると裸体の那美が現れる
 この章は、「寒い。手拭いを下げて、湯壺へ下る」ではじまる。

   やがて階段の上に何者かあらわれた。広い風呂場を照すものは、ただ一  つの小さき釣り洋燈のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控えて  さえ、確と物色はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、細やかなる雨に  抑えられて、逃場を失いたる今宵の風呂に、立つを誰とは固より定めにく  い。一段下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影を浴びたる時でなく  ては、男とも女とも声は掛けられぬ。
   黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞絨の如く柔かと見えて、足  音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差し支えない。が輪郭は少し  く浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭  敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場  の中にある事を覚った。
   注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺  憾となく、余が前に、早くもあらわれた。漲り渡る湯烟の、やわらかな光  線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾わす黒髪を雲と流  して、あらん限りの脊丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、  作法の、風紀のという感じは悉く、わが脳裏を去って、ただひたすらに、  美しい画題を見出し得たとのみ思った。(P93)(中略)
   輪郭は次第に白く浮き上がる。今一歩踏み出せば、折角の嫦娥が、あわ  れ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾の如く  に風を起して、莽と靡いた。渦捲く烟を劈いて、白い姿は階段を飛び上が  る。ホホホホと鋭く笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第  に向へ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突立つ。(P96)

 『草枕』には、こう書かれていたが、実際には漱石は五高の同僚の山川と一緒に温泉につかっていて、湯気の中にぼうっと浮かんだ卓子の裸体を見ただけなのである。卓子はこの時、「二人の男が灯影の当らない浴槽の一隅に首だけ出してゐる」(夏目鏡子・『漱石の思ひ出』)のに気付いて、一緒に裸になりかけていた女中が「どうなすったか」と尋ねるのに答える余裕もなく、着物を引っかけるようにして走って逃げ出したのである。事実はこうした偶然性によるものであったが、漱石は那美の裸体の美しさを幻想的に描き、非人情の極地とも言うべき美をここに創出しようとしたのである。併せて、那美が現実世界に生きる人間ではなく「狂気」という側面も持ち、画工とは別世界の存在であることもほのめかせようとしたのである。

第八章 余は大徹和尚たちと那美の父親の主催する茶会に参加する。

   お茶の御馳走になる、相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹というそ  うだ。俗一人、二十四、五の若い男である。(冒頭)

 お茶会は志保田の主の部屋で催される。この人物は「頭の毛を悉く抜いて、頬と顎へ移植した様に、白い髯をむしゃむしゃと生やして」いる老人で那美の父親である。実在の人物前田案山子をモデルにしているが、詳しいことは「七『草枕』のモデルたち」の項でふれることにしたい。「俗一人」とあるのは、「僧一人」に対しているわけだが、那美の従兄弟の久一のことである。ここに登場する老人と僧は、桃源郷に遊ぶ者で、いわば非人情世界の人物であるが、久一はあとで述べるように俗世界を背負う人物である。

  (老人)「今日は久しぶりでうちへ御客が見えたから、お茶を上げようと  思って、…」と坊さんの方を向くと、「いや、御使をありがとう。わしも  、大分御無沙汰をしたから、今日位来て見ようかと思っとったところじゃ  」という。この僧は六十近い、丸顔の、達磨を草書に崩したような容貌を  有している。老人とは平常から昵懇と見える。(P98)

 志保田の主の老人と観海寺の和尚は、さまざまな骨董品や美術品などを取り出したりしながら談義に花を咲かせていく。二人は時折、話題を画工に向けたり、久一に向けたりする。和尚は「こんな田舎に一人では御淋しかろ」と問いかけるが、画工は「はああ」と何とも要領を得ない返事しかできない。すると老人は「なんの、和尚さん。この方は画を書かれるために来られ田のじゃから、お忙しい位じゃ」と主人役の立場で、画工の言葉の足りなさを補ってくれる。話題は、次から次へと展開して久一の所に回ってくる。出征の話が出たところで、画工が久一に向かって「支那の方へ御出ですか」と尋ねたところ、老人は当人に代わって、満州の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に告げた。この夢のような詩のような春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違いである。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古したる孤村にまで逼る。朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸る時が来るかも知れない。この青年の腰に吊る長き剣の先から烟りとなって吹くかも知れない。(P110)

 ここで、特筆すべき話題を一つ取り上げたい。和尚と画工との間で交わされる対話の中に初めて「那美」という女主人公の実名がこの場面で明かされる。

   「観海寺というと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を一目に見下ろ  しての――まあ逗留中にちょっと来て御覧。なに、此所からはつい五,六  丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじゃろうが」
  「いつか御邪魔に上ってもいいですか」
  「ああいいとも、何時でもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。―  ―御嬢さんといえば今日は御那美さんが見えんようだが――どうかされた  かな……」(P102)

 画工は偶然にも女の名が「那美」であることを知ってしまったが、次の九章で、彼女と二人きりで語る場面でも、一貫して「女」で通しており、那美という名はまったく使用していない。会話の中でも「あなた」という二人称を用いていた。画工の語りの言葉の中に「那美」という固有名詞が初めて登場するのは、十章の鏡が池においてである。「美しい女の浮いているところを書いたらどうだろう」と発想する中で「温泉場の御那美さん」という名を思い浮かべている。しかし、ここはまだ、画工の空想の領域においてであって、同じ章の後半で現実の彼女が高い巌から向こう側へ飛び降りる姿を見る場面では、呼称がまた「女」に戻ってしまっている。

第九章 余と那美との会話。
 第九章は、『草枕』全体を俯瞰できる章である。面白い読書論が展開される章でもあるが、ここには峠の茶店での話、振袖姿のわけ、風呂場での出来事、久一のこと、観海寺の和尚のこと、鏡の池についてのこと、などが次々に話題になり、この作品の見せ場が勢揃いする。場面は、「お勉強ですか」と言って女が画工の部屋に入ってくるところから始まる。この行為は、そもそも動かぬはずの女主人公が、動き始めることを意味する。非人情の世界であったはずの関係から、画工は危うく人情の世界に引き戻されそうになる。画工は女に向かって、小説の読み方、読書の仕方について語り始める。

   「小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを  読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留してい  るうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そう  なるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はない  んです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初から小説を初めか  らしまいまで読む必要があるんです」
  「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
  「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で  読むから、すじなんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、  ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」(P11  3)

 画工と女がこうして話をしているときに突然、地震が起こる。

   轟と音がして山の樹が悉く鳴る。思わず顔を見合わす途端に、机の上の  一輪挿に活けた、椿がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は  、膝を崩して余の机に靠りかかる。お互の身躯がすれすれに動く。キキー  と鋭どい羽搏をして一羽の雉が藪の中から飛び出す。
  「雉が」と余は窓の外を見ていう。
  「どこに」と女は崩した。からだを擦寄せる。余の顔と女の顔が触れぬば  かりに近付く。細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。
  「非人情ですよ」と女は忽ち坐住居を正しながら屹という。
  「無論」と言下に余は答えた。(P118)

 あやうく戻りそうになった現実世界からかろうじて身をかわし、画工は非人情の世界に戻ってくる。このあと話題は鏡の池に移る。「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」と画工が言うと、女は、「行って御覧なさい」と言い、二人は奇妙な話題に入っていく。

  「画にかくのに好い所ですか」
  「身を投げるに好い所です」
  「身はまだなかなか投げないつもりです」
  「私は近々投げるかも知れません」
  余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外  慥かである。
  「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いているところじゃ  ないんです――やすやすと往生して浮いているところを――綺麗な画にか  いて下さい」
  「え?」
  「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
  女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入り口を出るとき、顧み  てにこりと笑った。
  茫然たること多時。

第十章 余は那美の先祖に入水した女性がいたという話と鏡が池という名の由来を聞く。
 冒頭は幻想的な雰囲気を漂わせる鏡が池の描写から始まる。この鏡が池の場面は、『草枕』における一つの山場と言えよう。画工は「こんな所へ美しい女の浮いている所を書いたら、どうだろう」と思い、その美しい女と那美を重ねてみるのであった。この点について、蒲池正紀氏は『草枕私論』の中で次のように述べている。

   鏡が池の畔で画家と那美さんの思いがけない邂逅のエピソードも、「幻  影の盾」のシーンを想起せしめるが、その原型は「エイルキン」にあった  のではないか。熊本の小天には「鏡が池」と称する池はない。しかし所謂  漱石館から北方五分ばかりの距離の個人の邸宅の中に、自然の湧水がなす  広い池が存している。そこを若い日の漱石が探訪したか否かは不明である  が、「鏡が池」を作品に導入したのは、「幻影の盾」と同じロマンスの公  式の定石を辿ったとは言い得るであろう。

と、暗に田尻家の庭の池がそのモデルであるとにおわせている。前田卓子は後の回顧録で、観海寺が岩戸観音のことで、観海寺の裏の「鏡が池」というのは、その観音様の裏を流れている川にある「鼓が滝」のことであろうと述べている。卓子はそこへ漱石を案内したと言っているし、霊巖寺の住職はよく前田案山子のところへ茶飲みに来ていたとも述べている。

第十一章 余は観海寺に大徹和尚を訪ねる。
 冒頭は、
   山里の朧に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数春星一二  三という句を得た。余は別に和尚に逢う用事もない。逢うて雑話する気も  ない。偶然と宿を出でて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、つい  この石塔の下に出た。しばらく不許葷酒入山門という石を撫でて立ってい  たが、急にうれしくなって、登り出したのである。

と始まるが、画工は、観海寺の春宵の美しい情景を味わうとともに、大徹和尚の世俗から離れた超現実の世界を垣間見ることになる。

第十二章 余は那美が別れた夫に金をわたすのを目撃する。

 この章には、前田案山子の豪邸や小天の風景がいかんなく描かれている。

   三丁程上ると、向こうに白壁の一構が見える。蜜柑のなかの住まいだな  と思う。路はまもなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振  り返ったら、下から赤い腰巻きをした娘が上ってくる。腰巻きが次第に尽  きて、下から茶色の脛が出る。脛が出切ったら、藁草履になって、その藁  草履が段々動いて来る。頭の上に山桜が落ちかゝる。脊中には光る海を負  ている。岨道を登り切ると、山の出鼻の平な所へ出た。北側は翠りを畳む  春の峰で、今朝掾から仰いだあたりかも知れない。南側には焼野とも云う  べき地勢が幅半丁ほど広がって、末は崩れた崖となる崖の下は今過ぎた密  柑山で、村を跨いで向を見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海であ  る。(P154)

 極めて色彩感にあふれる文章である。白壁から始まって、蜜柑の黄色、赤い腰巻きの娘、その娘の茶色の脛という具合に立て続けに目にしみるような鮮やかな色彩が示される。頭上には山桜の淡い桜色、背中にはきらめく春の光、北側には緑、南側には焼野の黒といった具合で、あたかも印象画の画家の描いた美しい風景画を見るようである。蜜柑畑には木瓜がよく似合う。漱石は木瓜が好きだったらしい。

  木瓜咲くや漱石拙を守るべく    (明治三〇)
  其愚には及ぶべからず木瓜の花   (明治三二)
  木瓜の花の役にも立たぬ実となりね (明治三二)
  僧か俗か庵を這入れば木瓜の花   (明治三二)

という俳句があるし、この章の別のところで漱石は次のように書いている(P156)。

   木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら  真直かというと、決して真直ではない。ただ真直な短い枝に、真直な短い  枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上がってくる。そこ  へ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着  ける。評してみると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。  世間には拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるとききっ  と木瓜になる。余も木瓜になりたい。(P156)

 さて、那美が別れた夫に金をわたす場面に移ろう。

   脊のずんぐりした、色黒の、髯面と、くっきり締まった細面に、襟の長  い、撫肩の、華奢姿。ぶっきら棒に身をひねった下駄がけの野武士と、不  段着の銘仙さえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反り身  に控えたる痩さ姿。はげた茶の帽子に、藍縞の尻切り出立ちと、陽炎さえ  燃やすべき櫛目の通った鬢の色に、黒繻子のひかる奥から、ちらりと見せ  た帯上の、なまめかしさ。すべてが好画材である。
   男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧みに平均を保ちつつ  あった二人の位置は忽ち崩れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせ  ぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家な  がら、今まで気がつかなかった。
   二人は左右に分かれる。双方に気合いがないから、もう画としては、支  離滅裂である。雑木林の入り口で男は一度振り返った。女は後をも見ぬ。  すらすらと、こちらへ歩行てくる。(P159)
 
 那美の元の夫は、城下でも屈指の資産家であったが、勤めていた銀行の倒産によって零落してしまった。そして、満州へ渡ろうとしたが準備金がない。そこで、この男は那古井の宿を訪ねて別れた妻の那美から金をもらったのである。その場面を目撃した画工に、那美は次のよう冷ややかに語る。

  「何でも満州へ行くそうです」
  「何しに行くんですか」
  「何しにいくんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分  りません」 (P163)

第十三章 余は久一の出征を見送り、那美が満州に旅立つ前夫と顔を見あわせる場面を目撃する。

   川舟で久一さんを吉田の停車場まで見送る。舟の中に坐ったものは、送  られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物  の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論御招伴に過ぎん。御  招伴でも呼ばれれば行く。何の意味だか分らなくても行く。非人情の旅に  思慮は入らぬ。(P166)

と言う文章で始まる。「非人情の旅に思慮は入らぬ」とあったが、やがて画工の非人情の旅も終わりを迎える。川を下ることによって、桃源郷のような非現実の世界から俗世界へ戻っていくのだ。
 那美はこの舟の中で、これから日露戦争に従軍する従兄弟の久一に向かって、「久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞が悪い」(P167)と言い放つ。舟から汽車に乗り換える吉田の停車場でも、那美は「死んで御出で」(P174)と繰り返す。この発言の真意はどこにあるのだろうか。漱石の『趣味の遺伝』は、『草枕』と同じく明治三十九年に発表されたが、そこには、漱石の幼なじみが日露戦争で戦死することが書かれている。久一の戦死は必然的に起こりうる事として捉えられていたのだろう。それを予感させるかのように「長蛇」のごとき「汽車」が久一たちを飲み込んでしまう。
 また、那美のこれらの言葉には別の意味も込められているかも知れない。那美は、女だから戦争に行かされることはないが、日々那古井の村人たちの好奇の目にさらされ、「狂女」のうわさを立てられ、戦場のような苦しみを味わっている。村人たちは、暗に「入水」という形での那美の死を期待している。人々が期待するのは、男女の問題で苦しんだ女は入水して果てるものだという、古来の陳腐な筋立てである。だが、那美は決してそうした発想には乗っていこうとしない。「入水」を那美は、たびたび口にしているが、それはあくまで画工と交わした言葉の中で用いたものであり、非人情世界の美意識としてそう語ったに過ぎないのである。
 最後の場面に移ろう。久一の乗った列車はごっとりごっとりと動き出す。

   窓は一つ一つ、余等の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の  三等列車が余の前を通るとき、窓の中から、又一つ顔が出た。茶色のはげ  た中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのと  き、那美さんと野武士は思わず顔を見合わせた。鉄車はごとりごとりと運  転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見  送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」  が一面に浮いている。
  「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩  を叩きながら小声にいった。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したの  である。(P175)

 漱石は、『三四郎』の最後の場面で、女の肖像画を印象的に使っている。『草枕』では、画工の心に焼き付いた那美の複雑な思いの表情、その一瞬の表情に彼女のすべてが凝縮されていると画工が感じ取ったところでこの作品は終わっている。漱石は、一瞬の美を永遠たらしめる「肖像画」の持つ力のイメージを読者に連想させつつ、この作品を印象的に終えようとしたのであろう。

六 作品の舞台の地
 漱石は、明治二十九年四月に第五高等学校の英語教師として着任したが、その年の六月に東京育ちの中根鏡子と結婚して熊本で新生活を始めた。漱石は明治三十三年七月までの足掛け四年間この地にいたが、そこでのさまざまな体験が『草枕』に生かされている。この間に漱石は多くの俳句を作っている。その一つに、
  衣替へて京より嫁を貰ひけり
という句があるが、漱石はその新妻を一人熊本に残して、越年のために小天の湯の浦温泉にやってきた。滞在したのは地元の素封家、前田案山子の別荘であった。鏡子は一人寂しく熊本の大江村に残っていた。そこは家の表が桑畑で、裏が竹藪というところで人気のない寂しいところであった。漱石は、妻に対する申し訳ない気持ちを、
  旅にして申訳なく暮るゝ年
という句に託している。新婚六ヶ月ほどしか経っていないのに、新妻を一人家に残して自分だけが温泉で年越しをするというのは、どういう背景があったのだろうか。漱石は、年始客の煩わしさを避けて家を離れた。新妻の鏡子は、九州の温泉宿の汚さに懲りて自宅に留まったと言われているが、本当のところ詳しい事情についてはあまりわかっていない。
 この別荘は、もともとは案山子が来遊する政界の同志たちを泊めるために、村の共有温泉に隣接した所有地の竹藪を伐り開いて造ったものである。出来あがって見ると、ふだん遊ばせておくのはもったいないないので、増築をして温泉宿にしたものである。漱石は、五高の同僚で英語教師の山川信次郎を伴ってこの宿で一番上等とされていた三番という部屋に泊まった。この三番は、政界の名士たちがきたときに泊める部屋なので、家具や飾り付けなどもなかなかりっぱなものであった。
 ところで、漱石はなぜこの小天の里に「那古井」という名を付けたのであろうか。これについては現在のところ二つの説がある。一つは、那古井すなわち「那美さん恋いし」の意を言外に表したもの(加藤豊子『草枕・那美さん考』)であり、もう一つは「な」を禁止の意味にとって「勿恋い」つまり「恋する勿れ」という漱石の自制心の象徴とする説(藤田美実『文学と革命と恋愛と哲学と』)である。どちらも意味を掘り下げてみれば、肯定表現か否定表現かという違いこそあれ、那美への思いの深さを表すもので興味深い説である。

七 『草枕』のモデルたち
 「画工」・「余」については、漱石自身の姿やものの考え方が色濃く投影されているが、もちろん漱石その人というわけではない。「余」は、主人公と言うよりも、作品の語り手あるいは視点人物としての位置を占めていると考えるべきであろう。「那美」のモデルについては、多くの研究者・評論家が一致して前田卓子であると断定しているが、これは本人自身も認めている事実である。彼女は、自由民権運動の闘士で代議士もやった前田案山子の次女として生まれた。小天に伝わる伝承「『草枕の里』を彩った人々」(熊本日日新聞情報文化センター)によると、「少女時代の卓子は父案山子の武の血筋をひたすら受け継いだ不羈奔放な女性だったように思われる。薙刀、小太刀の名手であり弟たちに剣道の稽古をつけたとか(それに見あう記録としては金儀日誌十三年五月二十六日に本家に撃剣をしにいった記事が見えるが)、前田家に出入りしていた女武芸者を打ち負かした(古財運平『漱石あれこれ』)とか、その反対に暑中時にお針の稽古などではまっ先に尻をからげて、ぺしゃんこに坐った(蒲池政紀『漱石私論』)とか、そうした「気丈気侭なお転婆」(同前)ぶりは、いわば彼女の天性だったかもしれない。(中略)『草枕』の画工を再三驚かせる女の身捌きの機敏さや、観海寺の和尚のいう「機鋒の鋭さ」は、たしかに卓子のなみなみならぬ武道の素養を物語るものである」と伝えられている。また、「『草枕の里』を彩った人々」には、さらに「卓子は昭和十三年九月六日、赤痢に罹り板橋区豊島病院で満七十一歳の生涯を終わった。晩年の彼女は西池袋に住み、妹が自宅の一部に建てた文交社と呼ぶ宿舎に住む中国人学生の世話を見るのを楽しみとしていた。そんな彼女が死期近いころ遠縁に当たる花枝氏にしみじみ述懐したという。『一生のあいだ、ロクな男に出会わんかったが、夏目さんだけは大好きだったよ。奥さんさえいなきゃ、いんにゃ二号さんでもいいと思った時もあったよ。でもこの世には、身分だの地位だのいろんな障りがあって…。でもあの世に行けば、みんな同じだから、同じ白い着物着て、フワラフワラと浮かんでいたら、きっと夏目さんにもめぐり会えるよね…』」ともある。これだけの思いを卓子が持っていたとすれば、若き日に漱石と何らかの交流があったと考えるのが普通であり、卓子の一方的な片思いというのではなく、漱石もまた一定の思いを寄せていたという推測も成り立つ。
 さらなる登場人物「志保田の隠居」で、「画工」の目によれば「頭の毛を悉く抜いて、頬と顎へ移植した様に、白い髯をむしゃむしゃと生やして」いる老人は、前述の前田案山子がモデルである。前田案山子は、第一回の衆議院選挙に当選し、河野広中・鈴木充美とあわせて「議会三美髯」と呼ばれたが、この老人の風貌と一致している。作品の中で老人は、弓の名手と言うことになっているが、案山子は、槍をとっては細川藩きっての達人の誉れ高い人であった。文政十一年に生まれた案山子(実名は覚之助)は、幼少から腕力が強く、学問をそっちのけでひたすら武芸に励んだ。二十五歳で長兄の家督を継ぎ前田本家の当主となったのち、御中小姓として御側御備の列に入っている。慶応三年の明治維新の年に、案山子は武芸では生きていけないと悟り、文の道を選んだ。彼は、近隣の儒者を自宅に招いて講学に努めるとともに地域の教育と民生に力を尽くしたが、その後自由民権運動に身を投じていった。そうした過程を踏んで衆議院議員になったのである。
 そのほかの登場人物にもそれぞれモデルがいる。「観海寺の和尚、大徹」は、岩戸観音が祀られている霊巖洞のある雲巖禅寺の住職で、彼が前田案山子の家にしばしば茶を飲みに来ていたことは多くの証言によって明らかである。「馬子の源さん」と呼ばれる「那古井の源兵衛」のモデルは、前田家に四十年間も奉公した丸山政平であるといわれている。
 漱石は、漱石は小天の小旅行で出会ったこうした実在の人物を思い浮かべながら、十年近い歳月を経たのちに、それぞれの人物にさまざまな脚色を加えて、『草枕』の中の人物像を作り上げていったのである。おそらく当時目にしたり耳にしたりした一人一人の表情や立ち居振る舞い、あるいは言葉づかいなども思い浮かべながらこの作品の中に書き進めていったのであろう。


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