小説読解の方法

恩田 満
      〔はじめに〕

       第一節 「素材」のとらえ方

       第二節 「構成」のとらえ方

       第三節 「主題」のとらえ方

〔はじめに〕

 世の中の複雑にからみあう現実が作家の心に長い時間にわたって強い感動を与え、作家がその現実の姿を、ありのままに伝えようとするときに、小説という形式が生まれる。作家は、自分の心に強い感動を与えた現実の中から、書きたい必要なものを探す。それが小説の材料、すなわち素材となる。そしてこの素材は、人物(特徴・性格・心理)、背景(環境)、事件(行為)という三つの要素から成る。作家は、これらの素材を整理しどこかに重点を置きながら構成し、自分の書くべき主題を明確にしていく。小説は、こうしてできあがってくるのだが、できあがった作品が作家の当初の意図と異なった意味で、読者に受け取られる場合も少なくない。その点からすると、作品は、作家を離れて独立し、独自の道を歩んでいくものともいえるが、作品には自ずから作家の人格が投影されているものである。
 われわれの世界の中でもっとも興味深いものは、あるできごとの経過や結果ではなく、それらを引き起こす人間そのものである。小説に書かれた人間の行動や心理・性格などを分析し、さまざまな背景を考えながら、総合していく中で、われわれは、人生の真をかいま見ることができる。ここに小説を読む中心的な意義があるが、他にもさまざまな意義がある。
 われわれは、小説のすぐれた表現方法によって、ことばの感覚を磨いていくことができるし、作者の創造力、ものの見方・考え方・感じ方、あるいは、作者の思想に啓発されることも少なくない。自分の過去の経験を確かめたり、未知のことを経験したと同じ気持ちになれたりもする。そうするうちに人間性が高められ、情感も鋭くなっていく。また、すぐれた小説を読んだことで、人生観が変わったり、生きる力を得たという経験を語る人も多い。
  このように、小説というものは、読む楽しさという享楽的な面も与えてくれるし、人間性を豊かにし、情感をこまやかにするという人間錬成の面も与えてくれるのである。

〔小説読解の方法〕

 われわれが小説を読解するときは、作家の創作過程と逆になっていく。その方法としては、まず、表現の手段である「ことば」を手がかりとして、作品の内部に入って行くわけだが、読んでいくうちに、構築された「素材」とぶつかる。さらに、素材を細かく分析・総合しながら読み進むうちに、作家がその作品で伝えようとした感動の中身が見えてくる。こうして、作家の感動の中身が見えてきたら、次は、表現された事柄について、読者の立場からの批判を加えていく作業が必要になってくる。そして、その批判を徹底すればするほど、作家の立場や姿勢についての理解が深まっていく。そのうちに、その作品の「主題」がつかめるようになってくる。そして最後に、その作品にあらわれた作家の全人格(間接的ではあるが)を通して、その生き方を学ぶということで終わる。
 こうした順序は、作品の特徴により必ずしも一定のものではないが、一篇の小説を深く理解するには、この程度の作業が必要とされるものである。小説の読解でもっとも大切なことは、「主題」を理解することである。そのためには、素材の分析・総合が行われなければならないが、同時に、それを行う上で不可分の関係にある「構成」についての分析も行われなければならない。
 さて、それでは、実際の読解作業について述べることにする。読解の最も重要な要素である主題をとらえるためには、文章の内容を表象化(イメージ化)することが第一に必要である。頭の中で文章に書かれた内容を、具体的で豊かな映像にして、作品に描かれた人物像や背景を自分なりに認識できるように努める。これは、描かれた内容を自分の身近なものにしていく作業である。写実的に描かれた作品に登場する人物・背景は、仮にわれわれと時間的・空間的な隔たりがあっても、具体的なものとして頭の中に創造することができるものである。
 この段階が済んだら、事件(行為)を順序立ててとらえていかなければならないが、このことは、小説を味わい、小説の中にひたっていくことでもある。読者にとっての小説の醍醐味は、期待や不安を抱きながらページをめくっていくところにある。
 こうした作業をせずに、解釈を、ただ単なることばの置きかえと考えたり、ストーリーのおもしろさを追うだけでは、作品の理解は浅いものであり、真の意味での読解とはいえない。

第一節 素材のとらえ方

 表現された素材を豊かにとらえていく上で、まず大切なことは、文章の「奥行き(遠近)」をつかむことである。「いつ・どこで・だれが・どうした」と、ストーリーだけを読むような平面的な読み方であってはならない。作家は、ストーリーだけを書いているのではなく、作品にふくらみを持たせるために、必ず「いろどり」を添えている。ロマンティックな出来事を表現する際に、点景として月の美しさを描いたり、作中人物の死を暗示するのに、冬枯れの景色を背景として描いたりすることがある。素材を正確にとらえていくためには、こうした「いろどり」などの、情景描写の部分を含めて豊かに表象化しなくてはならない。すなわち、頭の中に「芝居の舞台」を作り上げる作業をするわけである。その「舞台」には、人物が登場するばかりでなく、「照明」もあり、「効果音」もあるといったものでなくてはならない。しかし、これだけでは「奥行き」のある表象化にはならない。登場する「もの」に大小をつけなければならないのである。この大小は、作家の表現の優劣や、文章の長短などによっても違いが出るが、読者自身の立つ位置によって大きく異なってくるものである。
 それでは、表象化の具体的な一例を、以下に述べてみることにする。

 吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。 何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はこゝで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ この書生というのは、時々我々をつかまえて煮て食うという話である。しかし、その当時は何という考えもなかったから、別段恐しいとも思わなかった。
         (夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭の一節)

1.登場人物(猫と書生)
(1)「猫」の視点から対象人物である「書生」を見ているので、「猫」が大きく「書生」が小さい。
(2)「猫」は哀れそうに「ニャーニャー」泣いている。
(3)「書生」は、かすりの着物を着てはかまをはいている。
頭はバサバサで無精ひげを生やしている。

2.背景
(1)時代は、作品の成立時期や「書生」ということばなどから判断して、明治時代後半。
(2)場所は、「薄暗いじめじめした所」である。
(3)効果音として「ニャーニャー」と泣く猫の声。

3.事件
  捨てられた「猫」が、薄暗いじめじめした所」で「ニャーニャー」泣いている。

 上の文章(『吾輩は猫である』の一節)では、上記のようなことを、頭の中に思い描かなければならない。表象化に当たってとくに注意すべき点は、1.「登場人物」の項の(1)、すなわち、「どの視点に立って何を見ているか、どちらが大きくてどちらが小さいか」ということである。(大小と遠近の関係でいえば、近いものは大きく、遠いものは小さく見えるはずである)
 それでは、大小を逆にするために、立つ視点を変えてみることにする。文章は、次のようになるだろう。

 吾輩は猫を見つけた。
名前はまだつけていない。どこで生まれた猫かとんと見当がつかぬ。猫は薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた。(後略)

 こう書き改めると、「吾輩=書生」となり、その視点から対象人物の「猫」を見ていることになる。この場合は、「書生」を大きく、「猫」を小さく表象化しなければならなくなってしまう。もともと、漱石の『猫』は、「猫」の視点から、人間世界を風刺的に見ている作品なので、とんでもない改悪になってしまう。この例のように、視点人物と対象人物とを逆にして表象化してしまうような読み方したならば、『猫』の読解は、根本的にまちがったものになってしまうであろう。

〔補〕素材の分類
1 人物(性格・心理)
  ある背景の中で生きて行く人間(擬人化された人物を含む)をさすもので、多くは心理の面においてとらえられるが、それ以前に、名前・年齢・性別・職業・身体的特徴などを押さえておかなければならない。登場人物は、ある背景(環境)の影響を受けつつ行動するが、反面、ある状況を改革しようと行動することがあるので、固定的にとらえてはならない。登場人物は、何かに対して行動を起こすときに、喜怒哀楽などのさまざまな感情を持ち、心理が微妙に揺れ動くので、読者は、その時々に、登場人物の内面の変化をつかむようにしなければならない。
2 背景(環境)
  歴史的・地理的な条件を前提として、社会とか自然など、幅広い意味での環境をさす。「人物」も「事件」も「背景」の影響のもとにあるので、これを押さえることなしには、人物像も内容も性格につかむことはできない。
3 事件(行為)
  登場人物の内面の行為(心理)の場合もあるし、その人物が社会や自然との間に起こすできごとの場合もある。ストーリーの展開をつかむ上で大切な要素である。

第二節 構成のとらえ方

 小説の素材をつかむことによって、その主題に近づくことができるが、主題を正確に押さえるには、それだけでは不十分である。素材のどこに力点が置かれ、どのように配置・構成されているかをつかむことが重要である。しかし、素材をつかむことと構成をつかむことが別個の作業として行われるべきものでなく、タテヨコ一体のものとして同時に行われなければならない。
 作品を読みながら、人物・背景・事件を少しずつ表象化していくためには、それぞれが「どのように構成されているか」に細心の注意を払わなければならない。作家が力点を置いて構成しているところは、それなりの大きなふくらみを持って表象化し、作家が軽く押さえたところは、小さく表象化する必要がある。作家が「力点を置いて構成」するとき、他の部分に較べて紙数をさいて長めに描写したり、強い表現を使って印象的に表現したりするものだが、その部分だけにとらわれて全体での位置を見失ってはならない。これを見失うと、主題をまちがって把握をしてしまうことがあるからである。また、「力点を置いて構成」された部分に至るまでには、それを盛り上げる点景があるし、さまざまに張りめぐらされた伏線がある。それに気づかずに読み飛ばしてしまうと、深い読解ができないのである。

一 ストーリー展開を押さえることを中心として
  前に述べたように、構成をつかむことは、素材をつかむことと並んで、主題を把握するために重要な作業なのである。ここでは、構成をつかむ具体的な方法を、ロシア民話『おおきな かぶ』と菊池寛の短編小説『形』を用いて述べてみることにする。

     「おおきな かぶ」   ロシア民話・西郷竹彦 訳

1 じいさんが かぶを うえました。
2 「あまい あまい かぶになれ。おおきな おおきな かぶ
   になれ」
3 あまい あまい おおきな かぶに なりました。

4 じいさんは かぶを ぬこうとしました。
5  うんとこしょ どっこいしょ ──
6 ところが かぶは ぬけません。

7 じいさんは ばあさんを よんできました。
8 かぶを じいさんが ひっぱって
9 じいさんを ばあさんが ひっぱって
10  うんとこしょ どっこいしょ ──
11 それでも かぶは ぬけません。

12 ばあさんは まごを よんできました。
13 かぶを じいさんが ひっぱって
14 じいさんを ばあさんが ひっぱって
15 ばあさんを まごが ひっぱって
16  うんとこしょ どっこいしょ ──
17 やっぱり かぶは ぬけません。

18 まごは いぬを よんできました。
19 かぶを じいさんが ひっぱって
20 じいさんを ばあさんが ひっぱって
21 ばあさんを まごが ひっぱって
22 まごを いぬが ひっぱって
23  うんとこしょ どっこいしょ ──
24 まだまだ かぶは ぬけません。

25 いぬは ねこを よんできました。
26 かぶを じいさんが ひっぱって
27 じいさんを ばあさんが ひっぱって
28 ばあさんを まごが ひっぱって
29 まごを いぬが ひっぱって
30 いぬを ねこが ひっぱって
31  うんとこしょ どっこいしょ ──
32 なかなか かぶは ぬけません。

33 ねこは ねずみを よんできました。
34 かぶを じいさんが ひっぱって
35 じいさんを ばあさんが ひっぱって
36 ばあさんを まごが ひっぱって
37 まごを いぬが ひっぱって
38 いぬを ねこが ひっぱって
39 ねこを ねずみが ひっぱって
40  うんとこしょ どっこいしょ ──
41 とうとう かぶは ぬけました。

 筆者は、20人ほどの学生に、この作品の読み聞かせを一回だけしてから、主題について考えさせてみた。読み聞かせという手法は、享受者にとっては、一語一語に注意して耳を傾けるものなので、軽い通読よりも全体の内容を把握しやすい、とも言われているので、筆者が試みてみたわけである。筆者の「この作品の主題は何か?」という問いに対して、次のような答えが返ってきた。

@「みんなが一致して協力すれば、困難な仕事も成し遂げることができる」
A「みんなが仲良く生活することは、非常に大切だ」
B「両親がいなくても、みんなで助け合えば生きていける」
C「ロシアは、広い土地に恵まれているだけあって、みんながおおらかでのんびりしている。犬と猫、猫とねずみまでが仲のいいのに驚いた」

 @の意見がもっとも多く、@に、A・Bを加えたものを含めると全体の大半を占める。Cは、感想を述べたにすぎないので、対象外としてはずせば、主題は、次のように要約すればいいことになる。

「みんな仲良く生活し、お互いに協力しあっていけば、困難を克服することができる」

 さて、この作品の主題は、これでよいのだろうか。いや、もっとも重要な点が欠けており、これだけでは、不十分だと言わざるを得ない。
  それでは、どの点が欠けているかを述べる前に、なぜ主題の把握ができなかったかを考えてみよう。一つには、与える側の問題であり、読み聞かせを一回しか行わなかったことによる。もう一つは、受ける側の問題であり、ストーリーをつかむことに追われて、構成について考えを巡らす作業を怠ったことによるのである。構成把握と表象化は、次のように一体化して行われなければならない。

(一)構成把握と表象化

(1)「発端」の部分(1〜3)注:算用数字は『おおきな かぶ』の行数を示す。
  1は、第三者の視点から対象者である「じいさん」の行動を見ているところだが、2は、「じいさん」が「かぶ」の種を見ているところなので、かぶの種は、きわめて小さいものになるはずである。そう考えてはじめて、「あまい あまい かぶになれ。おおきなおおきな かぶになれ」という「じいさん」の願いのことばが生きてくるのである。3は、第三者の視点からとらえたものとしても考えられるが、「じいさん」の視点からとらえたものと考えた方がよいだろう。 しかし、 いずれにせよ、事実の問題としては、種は、「じいさん」の願いを聞き届けたように、「おおきな かぶ」に成長している。だが、この段階で読者は、普通よりもやや大きなかぶを表象化する程度であろう。

(2)「展開」の部分〔その一〕(4〜 6)
  4・6は、 1と同様で、 第三者の視点から「じいさん」と「かぶ」を見ているところだが、1の時点よりはもとより、3に較べても大きくなっていなければならず、かなり大きなかぶになっているはずだ。そのことは、5・6にあるように「じいさん」が「うんとこしょ どっこいしょ」と大きなかけ声を出し、力を込めて抜こうとしても、どうしても抜けなかったという事実を見ても明らかである。

(3)「展開」の部分〔その二〕(7 〜 32 )
  1・4・6と同様で、 第三者の視点から「じいさん」「ばあさん」「まご」「いぬ」「ねこ」と一緒に「おおきな かぶ」を見ているところである。「かぶ」は、「じいさん」「ばあさん」が力を合わせても抜けないし、「まご」や「いぬ」が加わっても抜けない。したがって、読者のイメージの中では、「かぶ」は、さらに大きさを増してきている。そして、そのイメージは「ねこ」の登場に及んで巨大なものにふくれ上がってくる。「かぶ」がこのようにどんどん大きくなっていくが、一方で、登場する「人物」は、だんだん小さくなってくる。この時点までに登場するもっとも小さい「人物」は、「ねこ」であるが、かりにその視点からすると、恐しいほど巨大な「かぶ」として映るに違いない。

(4)「結末」の部分( 33 〜 41 )
  この部分もやはり、視点と対象は、前述のものと変わりがない。ただ、「かぶ」の大きさは、 読者の視点からしても登場する「人物」の視点からしても、頂点に達していると見なければならない。最後に登場する「人物」は、人間の身近な生き物としてはもっとも小さい「ねずみ」である。読者は、みんなが力を合わせても抜けなかった「かぶ」が、こんな小さな「ねずみ」が加わっても、抜けるはずはないと思う。「かぶを じいさんが ひっぱって じいさんを ばあさんが ひっぱって ばあさんを まごが ひっぱってまごを いぬが ひっぱって いぬを ねこが ひっぱって ねこを ねずみが ひっぱって」みんなで力を合わせて、「うんとこしょ どっこいしょ」と、かけ声を大きくして、必死になってがんばる。そして、最後に、「どうとう かぶは ぬけました」となる。
  クライマックスのこの場面で、「ねずみ」の果たした役割は大きい。かぶが抜けたとたんに「ねずみ」の姿は、読者のイメージの中で大きくふくらみ、「かぶ」よりも大きなものとして強く印象づけられる。「かぶ」は、もちろんみんなの協力によって抜けたわけだが、もっとも重要な働きをした者は、まぎれもなく、一番小さくて一番弱いと思われがちな「ねずみ」であった。すなわち、この作品の中では、もっとも小さい登場人物である「ねずみ」がもっとも大きい登場人物である「じいさん」よりも重要な働きをしたわけである。
 ここで、もう一度「主題は何か?」と考えてみるが、それは、次のように結論づけてよいだろう。

「(ねずみのように)どんなに小さく弱い者でも、 みんなと協力しあっていけば、 重要な働きをすることができる。そして、どんなに困難な仕事も協力すれば、成し遂げることができるのだ」

(二)構成と表現技法

(1)漸層法による感動の盛り上げ
  この作品は、登場人物を一人ずつ増やしながら、同じ動作を繰り返すという手法によって構成されている。それに気づいた読者は、まだ読んでいない部分の展開をある程度予測することができる。「いったい次はだれが加わるのだろうか?」「先ほどは犬が登場したから、今度は猫だろうか?」というように容易に想像することができる。そして、その想像が当たれば、先を読み進んで行くときに、作品への意識の集中がいっそう強くなっていく。同時に、「今度こそ抜けるだろうか?」という期待と不安も募っていく。読者のそうした心情は、順を追うごとに高まっていき、最後の「とうとうかぶは ぬけました」という場面で、これまでの期待と不安が大きな感動に変わる。
 こうした場面展開をより深く分析してみると、次のようなことが浮かんでくる。「かぶ」が抜ける前の登場人物の大小は、図ーA のように、「じいさん」が一番大きいが、順番に小さくなり、「ねずみ」が一番小さい。しかし、「かぶ」が抜けた瞬間に、読者のイメージの中では、図ーB のように、「ねずみ」がもっとも大きなものになる。一方「じいさん」「ばあさん」のイメージはしぼみ、「ねずみ」を除く他の登場人物と同程度の大きさになってしまう。彼らは、「ねずみ」が「かぶ」を抜くために力を貸すだけの、協力者の立場に変わってしまうのである。



 (2)人物の登場順序と主題
作家は、 登場させる人物(広義の)の性格と作品の主題を考えながら、 効果的な構成をしていく。人物の登場順序や配置にも細心の注意を払う。 この作品でも、人物の登場順序と主題との間に密接な関係がある。 人物の登場順序を変えると主題が大きく変わる場合もある。 そのあたりのことを西郷竹彦氏が『文学の読み方・教え方』の中で、次のように明快に述べている。

 さて、この話を、すこし作り変えた話を、これからちょっと申し上げてみます。「大きなかぶがありますね。まず、ねずみが出て来て、そのかぶをひく。抜けない。次にねこを呼んでくる。抜けない。(中略)つづいておばあさんを呼んでくる。抜けない。最後におじいさんを呼んでくる。抜けた」このお話の場合でもやはり、みんなが力を合わせれば抜ける。つまり、協力あるいは連帯ということになり、結局おんなじことになってしまいそうですね。どちらもおなじテーマの話というふうにみえてしまいますね。事件・事柄見ていきますと。(中略)このお話はどうでしょうか。小さいねずみの存在がかすんでしまう。ちっとも大きく感じられない。そして最後におじいさんが出て来る時に、読者は、見物人として、わきにいるものとしてこんな大きい強いおじいさんが出て来たら、おそらくぬけるだろうと思うから、そんなに力も入らないで、抜けてあたりまえという感じなんですね。しかし、ねずみが最後に出て来るお話のときには、さあ、どうなるだろうか、と力が入る。つまり、ドラマチックな筋になってくるわけですね。(中略)
  従って、この作品は、単に強力ということだけではなしに、たとえねずみのような小さな弱い存在でもそれがなければ ──その力を仲間に引き入れなければだめなんだ。また、そのような小さな存在が、大きな役割、大きな値打ちを人々に感じさせます。そういうところが、この作品の大事なテーマなんですね。単に協力だけじゃない。こういうふうにちいさな存在の大きな役割、価値を位置づけて初めて、他ならぬこの作品の主題が生きてくるのです。(中略)ところが、先ほどのはなし(デッチ上げた方の話)ですと、結局は、大きい強いものが出て来なきゃ物事はかたづかない。こういう思想を、読者に読みとらせることになるわけです。

 このように、人物の登場順序を変えて考えてみるのも、主題をとらえる一つの方法であろう。だが、どの作品にも通用するわけではない。重要なのはやはり、それぞれの場面をどのように表象化していくかという点である。

(3)ダイナミックな表象化
  前述したように、 この作品では、 登場人物がふえるにつれて、「かぶ」とかけ声は、読者のイメージの中でどんどん大きくなってくる。「発端」の段階では、やや大きめの「かぶ」であり、かけ声も「じいさん」一人のかけ声でしかなかったが、「展開」から「結末」の段階に至るにつれて、「かぶ」は、どんどん大きくなってくるし、かけ声をかける人数もふえてくる。最後には、「かぶ」は巨大な大きさになり、かけ声も6人の大合唱になるのである。このようにダイナミックに表象化をすることなしに、「かぶ」やかけ声の大きさを、静的、固定的にとらえていては、主題の正確な把握はできないし、読後の感動も生まれてはこない。素材の表象化は、場面の進展とともに、補強され拡大されていくべきもので、動的、流動的に行わなければならない。この補強、拡大、あるいは修正を加えていくというダイナミックな作業が必要なのである。この点について、心理学者の波多野完治氏が理論的な解明を行っているので、それをここに紹介させていただく。

 文章表現をするということは一つの言語活動でありますから、従って心理学的には言に属するわけです。言語が構造化して、媒介となって、思想の構造をとらえたときに言となる。こういうふうに考えるわけです。したがって、それは非常にダイナミックな過程であります。力動的な過程、あるいは弁証法的な過程といってもいいわけであります。
ところが、それが文章表現という形をとりますと、一つの静的な固定したものになるわけです。つまり文章表現というものはダイナミックなものを固定的なものにとめる仕事であると考えられるのであります。文章表現は固定的なものでありますから、したがって構造をもっています。その構造をどういうふうにとらえるかということが読みの目標、作業であると考えなくてはなりません。ふつう、文章というものは静的なものでありますから、それを読むのもまた静的な活動であると考えられていたのでありますけれども、そうではありません。静的なものを動的なものに変えなくてはならないので、それ自身、非常に動的な過程であり、したがって、それは動いているもので、前と真ん中と、後を持っているわけです。読みというものは、そういうものであります。読むときは絶えず前進していきますから、その前進に伴う予見とか、予想というものがあります。その予見なり予想を立てながら、現在は、眼が文間を追っているわけであります。その予想・予見が絶えず変化しつつ進んでいきますから、それが蓄積されて痕跡になります。痕跡といえば静的なものに考えられますが、そうではなくて、痕跡が絶えず前方の予想を刺激しているわけであります。読みというのはこういうような三層の構造をもって進行しているところの過程である、ということがいえるのであります。
  (波多野完治『現代心理学から見た一読総合読み』より抜粋)

(4)伏線の発見
  波多野完治氏は、「読むことは、それ自身、非常に動的な過程であり、読みには、前と真ん中と後の三層の構造がある」ということを述べているわけだが、この点を押し進めると、伏線を読みとることの大切さが浮かんでくる。
  伏線とは、「文章技法の一つ。小説・戯曲などで、のちに述べる事柄の準備のために、それに関連した前の方でほのめかしておくこと。またそのもの。(『日本国語大辞典』)」のことだが、複雑な構成の作品を読解するためには、伏線を発見することがきわめて重要である。だからといって、複雑な構成の作品を読解しようとするときに、伏線さえ読みとれればよいというものでもない。むしろ、そういう作品の場合こそ、前述したようにダイナミックな表象化が必要なのである。
  それでは、両者の関係はどのようになっているのであろうか。実際の小説読解では、「前」の部分の表象化ができてはじめて、「真ん中」の部分の伏線が読みとれるのであり、また、「真ん中」の部分の表象化ができて初めて、「後」の部分の読解ができるものである。(「後」の部分には、構造的に伏線は存在しない)この逆に、「前」の部分の伏線が読みとれれば、「真ん中」の部分の表象化ができるという順序で考える見方もあるだろうが、あくまで両者の関係は、表象化が主であり、伏線を読みとることが従であると考えたい。
  それでは、上述の見解に立って、次の作品である菊池寛の『形』を素材にして、具体的に論を展開していくことにする。

            「形」        菊池 寛

 摂津半国の主であった松山新介の侍大将中村新兵衛は、五畿内中国に聞こえた大豪の士であった。そのころ、畿内を分領していた筒井、松永、荒木、和田、別所など大名、小名の手の者で、「鎗中村」を知らぬ者は、おそらく、ひとりもなかっただろう。それほど、新兵衛はそのしごき出す三間柄の大身の鎗のほこ先で、さきがけしんがりの功名を重ねていた。そのうえ、彼の武者姿は、戦場において水ぎわだったはなやかさを示していた。火のような猩々緋の服折を着て、唐冠纓金のかぶとをかぶった彼の武者姿は、敵味方の間に、輝くばかりのあざやかさを持っていた。
「ああ、猩々緋よ、唐冠よ」と敵の雑兵は新兵衛の鎗先を避けた。味方がくずれさったとき、激浪の中に立ついわおのように敵勢をささえている猩々緋の姿は、どれほど味方にとって頼もしいものであったかわからなかった。また、あらしのように敵陣に殺到するとき、その先頭に輝いている唐冠のかぶとは、敵にとってどれほどの脅威であるかわからなかった。
 こうして、A 鎗中村の猩々緋と唐冠のかぶとは、戦場の花であり、敵にたいする脅威であり、味方にとっては信頼の的であった。「新兵衛殿。折り入ってお願いがある」と、元服してからまだまもないらしい美男の士は、新兵衛の前に手をついた。
  「何事じゃ。そなたとわれらの間に、さような辞儀はいらぬぞ。望みというを、早う言ってみい」と、はぐくむような慈顔をもって、新兵衛は相手を見た。その若い士は、新兵衛の主君松山新介の子であった。そして、幼少のころから、新兵衛が守役として、わが子のようにいつくしみ、育ててきたのであった。
 B ほかのことでもおりない。 明日はわれらの初陣じゃほどに、なんぞはなばなしいてがらをしてみたい。ついては、おみさまの猩々緋と唐冠のかぶとを貸してたもらぬか。あの服折とかぶとを着て、敵の目を驚かしてみとうござる」
  「はははは。念もないことじゃ」新兵衛は高らかに笑った。新兵衛は、相手の子どもらしい無邪気な功名心を快く受け入れることができた。「が、申しておく。あの服折やかぶとは、申さば中村新兵衛の形じゃわ。そなたが、あの品々をつけるうえからは、われらほどの魂胆を持たいではかなわぬことぞ」と言いながら、新兵衛はまた高らかに笑った。
 そのあくる日、摂津平野の一角で、松山勢は、大和の筒井順慶の兵としのぎを削った。戦いが始まる前、いつものように猩々緋の武者が唐冠のかぶとを朝日に輝かしながら、敵勢をしりめにかけて、大きく輪乗りをしたかと思うと、駒の頭を立て直して、一気に敵陣に乗り入った。
  C 吹き分けられるように、敵陣の一角が乱れたところを、猩々緋の武者は鎗をつけたかと思うと、早くも三、四人の端武者を突き伏せて、また、ゆうゆうと味方の陣へ引き返した。
 その日に限って、黒皮おどしのよろいを着て、南蛮鉄のかぶとをかぶっていた中村新兵衛は、会心の微笑を含みながら、猩々緋の武者のはなばなしい武者ぶりをながめていた。そして、自分の形だけすらこれほどの力を持っているということに、かなり大きい誇りを感じていた。彼は二番鎗は、自分が合わそうと思ったので、駒を乗り出すと、一文字に敵陣に殺到した。
 猩々緋の武者の前には、戦わずして浮き足立った敵陣が、中村新兵衛の前には、びくともしなかった。そのうえに彼らは、猩々緋の「鎗中村」に突き乱された恨みを、この黒皮おどしの武者の上に復讐せんとして、たけりたっていた。
 新兵衛は、いつもとは、かってが違っていることに気がついた。いつもは、虎に向かっている羊のようなおじけが、敵にあった。彼らがうろたえ血迷うところを突き伏せるのに、なんのぞうさもなかった。きょうは、彼らは戦いをするときのように、勇みたっていた。どの雑兵もどの雑兵も、十二分の力を新兵衛に対し発揮した。二、三人突き伏せることさえ容易ではなかった。敵の鎗のほこ先が、ともすれば身をかすった。新兵衛は必死の力を振るった。が、彼は、ともすれば突き負けそうになった。手軽にかぶとや猩々緋を貸したことを後悔するような感じが、頭の中をかすめたときであった。D敵の突き出した鎗が、おどしの裏をかいて彼の脾腹を貫いていた。

 下線部 A が『形』にはりめぐらされた伏線の一つであるが、 この内容を正確に理解するためには、「前」の部分で述べられた、人物や背景などの表象化がどうしても必要になってくる。「鎗中村」はどんな人物なのか、どんな活躍をしたのか、「猩々緋」や「唐冠纓金のかぶと」を身にまとうことはどんな意味を持っているのか、これはいつごろの時代のことか、等々を頭の中にイメージ化してはじめて、A の一文が果たそうとしている重要な役割がわかってくるのである。この一文は、実質的な力ではなく、いわゆる「形」として、服折(羽織)やかぶとの持つ力の大きさを明確にしている。すなわち、これらを身にまとった武者は大きな力を発揮するが、身にまとわなかった武者は持てる力さえ発揮できない、ということを暗示する働きを持っている。しかし、読者にとって、このような働きのすべてを、一気に理解することは困難であろう。読者は、A の一文に一定の注意を払うだろうが、ここまで読んだ段階では、これが伏線であるということすら気がつかないであろう。 おそらく読者は、傍線部分 B の段階まで読み進んできてはじめて、A の一文が持つ重さと、それが伏線であることに気づくであろう。そしてさらに、B もまた何かの伏線ではなかろうかというように考えはじめる。事実はその通りで、B はC に続く伏線であり、D に続く伏線でもある。
 このように伏線というものは、ある一文に続くばかりでなく、複数の文に続いたり、また逆に、ある一文を受けたりするなど、相互に関連し合う複雑な働きをするものである。なお、この傍線部分 Aから D までの関連をわかりやすく図式化すると次のようになる。

     A 「○○○○○○○○○○」→C
      B 「○○○○○○○○○○」→C,D
      C 「○○○○○○○○○○」
      D 「○○○○○○○○○○」

 さて、ある文章が伏線であるかどうかを知るためには、どうしたらよいのであろうか。まず前提としては、上述の『形』の場合がそうであったように、ある一文が伏線であるかどうかは、先まで読んではじめてわかるものだが、読書量の多い人にとっては、ある種の勘が働き、見当がつくものである。そうした勘が養われていれば、その先まで読まなくても、「この一文は、何かの伏線らしい」と注意が呼びさまされて、読みが深まっていくものである。
二 文体と表現を押さえることを中心として
 ある作家の作品を一定量以上読んだ読者にとっては、その作家の別の作品を1ページ読んだだけでも、同じ作家であるとすぐに気がつく。文体には、その作家の特徴が色濃くただようものである。

 或朝の事、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触覚はだらしなく顔へたれ下がってゐた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまはるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きてゐる物といふ感じを与へた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転ってゐるのを見ると、それが又如何にも死んだものといふ感じを与へるのだ。それは三日程その儘になってゐた。それは見てゐて、如何にも静かな感じを与へた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。

 上記は、志賀直哉の『城の崎にて』の一節であるが、ここには、氏の文体の特徴が如実に出ている。「た」が数回続けて用いられたあと「のだ」と続き、「だった」で結ばれている。ここには、文章の切れ味があり、格調の高さがある。表現しようとする内容をぎりぎりまでに縮め、一切の不要なことばを省いた簡潔な文章である。全体としては重厚さを感じさせる文体であるが、その中に一種のリズム感が感じられる。それは、長短に使い分けたセンテンスの配列からかもし出されるものであろう。

 次に、同氏の『清兵衛と瓢箪』の一節をあげるが、上記の文体の特徴と較べてみれば、同じ作家の作品であることは一目瞭然である。

 全く清兵衛の凝りやうは烈しかった。或日彼は矢張り瓢箪の事を考へ考へ浜通りを歩いて居ると、不図、眼に入った物がある。彼ははッとした。それは路端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出して来た爺さんの禿頭であった。清兵衛はそれを瓢箪だと思ったのである。「立派な瓢じゃ」かう思ひながら彼は暫く気づかずにゐた。 ── 気がついて、流石に自分で驚いた。その爺さんはいい色をした禿頭を振り立てて彼方の横町へ入って行った。

 さて、次の文章の場合はどうであろうか。

 初めて降りる駅なので所要時間がわからなかった。早ばやと家を出た。子供の頃から、約束に遅れたためしがない。小心なのだ。早めに目的地に着こうと思う。乗り物の所要時間を多めに計算する。はじき出した出発時刻よりもさらに早く家を出る。それでも不安で急ぎ足になる。そんなことが重なって、いつも、目的地で暇をつぶすのに困ることになる。
 その日 A 橋に着いたのも、予定よりも三十分以上前だった。


 これは、ジャーナリズムで昨今大きく取り上げられている芥川賞作家三田誠広の『運河の街』(「新潮」1978年3月号)の一節である。一見したところでは、志賀直哉の文体に似ているように思えるが、実はひじょうに大きな差異がある。長めのセンテンスの後に短いセンテンスがきて、テンポの速い切れ味のいい文体ではあるが、この文章からは重厚な格調の高さは伝わってこない。むしろ、軽やかな足取りでスキップをしながら進むような感じを受けるのである。長短のセンテンスの関係をみると、なぜそうなるのかがはっきりしてくる。
 志賀直哉の文章は、不要なことばがいっさい省かれた簡潔な表現で書かれているので、一文も抜き去ることはできない。それどころか、一字一句として別のことばに置き換えたり、配列を変えたりすることもできない。ところが、三田誠広の『運河の街』の文章は、短いセンテンスで述べた内容を、長いセンテンスで補足や説明をしたり、言い換えをしたりする形がとられている。読者にとっては、ストーリー展開がとらえやすいという利点があるが、やはり冗長な感があることは否めない。
 同氏のもっとも新しい作品の一つに『どうすりゃいいの』(「文学界」同年3月号)がある。この一節をあげて参考に供したい。ただし、この引用部分は、若い男性による会話文で、意識して品のない若者ことばを用いており、必ずしもこの作家自身の文体の特徴が如実に出ているとは言い難いが、やはり、補足説明や内容の繰り返しが多い。

 オレのことをバカだと言ったヤツがいたよ。ひとりじゃない。何人もいるんだよな。ほんと、バカなヤツらだよ。オレにむかって、バカなんて言うんだからな。もちろん、全員、問答無用で一発おみまいしたさ。オレッてこまかいことくどくど言ったり、言われたりするの、苦手なんだ。男は、黙っていればいい。目を見てるだけでわかるんだ。口先だけのヤツって、大ッ嫌いだよ。文章書くヤツなんて、キンタマ、あんのか。

 前に挙げた二人の作家の四つの作品で明らかなように、作家には、自分が作り上げたとはいえ、それぞれ身に備わった文体があり、その文体に作家の特徴や性格がにじみ出るものである。文体というものは、具体的に言えば、センテンスが長いとか、接続詞が少ないとか、あるいは、比喩が多いとか言うような、ある作品の書き方の特徴であるが、文体は、主題との関わりを強く持っているものでもある。主題が明るく楽しいものであれば、文体もそれにふさわしく軽やかで弾んだものになっているし、主題が悲しく深刻なものであれば、文体は哀調を帯びた荘重なものになっている。
 したがって、文体は、ただ単に表現上の特色としてとらえるのではなく、作家の性格や作品の主題を把握する上で、非常に大切なものとしてとらえなければならない。
  なお、翻訳文体・和文体をはじめとする様々な文体の種類や特徴、あるいは修辞法などについても述べるべきであろうが、許された紙数に限りがあるうえに、これらについては数多くの優れた参考資料があるので、ここでは割愛させていただく。(参考『文章読本』丸谷才一など)

三 表現を押さえることを中心にして
 文学というものは、説明・叙事・描写・会話という四つの表現方法が、独立したり、たがいに絡み合ったりして、総合的に構成されている。作品によっては、これら四つの表現方法がたがいに入り交じっていて、明確に分けられないものもある。作品を読むときには、分類しようとしたりせずに、大まかにつかんでおけばよい。この部分が「説明」で、この部分が「叙事」というような厳密な分類ができなくても小説の読解はできるからである。むしろ、これらの分析作業は、作品を書く作家や作品を分析する研究者にとって必要なものだだといえるだろう。読者にとって大切なことは、分類することではなく、用いられた表現をおさえ、ストーリー展開を正確につかみ、内容を豊かに表象化することである。ただ、表象化するに当たっては、これら四つの表現方法の果たす役割を正しく認識しておくことは重要である。
(注) ○「説明」―― 作者が事件の場所や時間、登場人物などに
     ついて、かいつまんで教える部分。
    ○「叙事」―― 語り手ができごとを順を追って述べていく
     部分。
    ○「描写」―― 人物や情景などを読者の五感に訴えるよう
     に述べた部分。
    ○「会話」―― 人物が互いに語り合っているせりふの部分。
     (せりふも含む)

 

第三節 主題のとらえ方

 主題を正確に把握するためには、どの素材に力点が置かれているか、どのように構成されているかをつかむことが大切であるが、この点については前に詳しく述べた。また、主題をとらえるための具体的方法として、各場面ごとの表象化が大切であるということについても繰り返し述べてきた。そして、基本的には第一節、第二節の中で、「主題のとらえ方」についても述べてきているので、ここでは、今までに言い尽くせなかったことについてだけ述べることにする。
 われわれは、ある作品の主題とらえようとするとき、時として「この作品で作者が述べたかったことは何か?」というふうに考え、作品にかいま見られた作者の思想などを、主題と見なしてしまうことがある。また、作者が作品の中にそれとなく顔を出して、自分の思想を述べている部分などがあれば、それを主題だと見なしてしまうことがある。
 しかし、先に「はじめに」の部分で述べたように、書く前に作者が述べようとしたことと、小説としてできあがったものとの間には、いくぶん隔たりがあるはずである。なぜなら、かりに作者が「この作品は、○○を主題に書く」と述べ、そうした意図で作品を書き上げようとしても、かならずしもそのままの意図で作品がまとまるものでもないので、結果的には「主題」とは、いくぶんの隔たりが出てくることになるからである。
 すなわち、作者が述べたかったことが、そのまま主題なのであろうか。この点をさらに掘り下げるにあたって、まず「主題」とは何かを明らかにする必要があるだろう。

一 主題の定義
(1)主題の一般的定義
 主題ということばには、広義と狭義の使い方があり、ここまでは広義にとらえて用いてきたが、正確を期するために、ここからは狭義にとらえて、論を展開していくことにする。
 主題とは、『世界大百科事典』(平凡社)によると、「作品がとりあつかう中心的な問題、すなわち何を表現しているかの<何> にあたるものである。しかし、文学もほかの芸術と同じく、さまざま観点からこれを評価することが可能であり、しかも主題は作品の素材やモティーフと結合しているので、それだけを分離してとり出すことはむずかしい。また一つの作品には、ふつういくつかの主題が含まれており、主要な主題と副次的な主題、あるいは一般的な主題と個別的(せまい意味の文学的)主題などに分けることもできる。常識的に主題というとき、素材やモティーフを含めたりこれらと混同したりするのはこのためである ……。(針生一郎)」のことだが、ここには重要な指摘が二つある。
  第一の指摘は、「主題とは、作品がとり扱う中心的な問題、すなわち何を表現しているかの<何>にあたるものである」という点と「常識的に主題というとき、素材やモティーフを含めたり、これらと混同したりする」という点である。つまり、主題とは、「作者」がではなく「作品」が取り扱う中心的な問題であり、作者が述べようとしたことというような作者の意図や創作のモティーフではなく、作品から客観的にとらえられるものである。この点を補足するために二つの例を引こう。
  丹羽文雄は、『小説作法』という書物の中で「自分は、主題ということばを<着想>に限定する。書く前にはごくぼんやりしたものがあって、書くうちに形をなしてくる。自分は書くことによって変わっていくタイプだ」という趣旨を述べている。また、川端康成は、「主題はあっても、こんどはどんな材料のどんな書き方にめぐりあうのでしょうか」と書いている。
 このことはすべての作家にいえるわけでもないが、この二人の作家のようなタイプは少なくないだろう。したがって、主題をとらえるときには、創作のモティーフとの関わりをあまり深く考える必要もないといえよう。むしろ、それを重視しすぎることによって、主題をむりにモティーフに合わせて考えてしまう過ちを犯す場合もあるだろう。すなわち、作品をあるがままに客観的にとらえられなく危険性が出てくるわけである。
  第二の指摘は、「一つの作品にはふつういくつかの主題が含まれており、主要な主題と副次的な主題とがある」という点である。この点は、短編小説についてもいえるが、長編の小説の場合には、より顕著に見受けられるはずである。したがって、長編小説の主題を考えるときには、何か一つの主題に的をしぼって決めつけるのではなく、他にも中心的な主題があるかもしれないと考えたり、副次的な主題がまだまだあるだろうと思ったりしながら、注意深く読みとっていくことが大切である。この点に注意を払わずに浅い読みをした場合には、副次的な主題の一つだけをとらえ、全体の主題だと錯覚する過ちを犯すこともあるので、入念に文章をたどっていくことが大切である。
 それでは、構成の上から、主要な主題と副次的な主題との関係を探ってみることにする。多くの作品に共通するのは、いくつかの副次的な主題の延長線上に主題が構築されるピラミッド構造になっているという点である。それは、ちょうど富士山に広い裾野があって美しい頂上があるように、また、無数の岩が集まってピラミッドができあがっているように、全体を支える副次的な主題がいくつもあって、それらを前提としたり包括したりしながら、主要な主題が形づくられているのである。それを図式化すると、図−A のようになるだろう。

   

     

 また、超大作といわれるような複雑な構造を持った長編小説の場合には、副次的な主題がいくつもあることはもとより、主要な主題が複数の場合もあるので十分に注意をしなくてはならない。
(図−B 参照)
  それでは、小説のあらすじともいうべき骨組みだけの文章を用意し、それを材料に使って、前の点についてより詳しく具体的に述べることにする。

 あるところに、貧しいが平和な農村があった。その村の真ん中を美しい川が流れていた。川をはさんで、愛し合う若い男女が住んでいた。二人は両岸のだれかれも暖かく見守られていた。この平和な村に大きな工場が建てられた。その後、工場から有毒な廃液が流されるようになり、美しい川は死の川へとかわってしまった。被害は、川の西側に比べて、東側の被害がとくにひどかった。被害を受けた両岸の農民たちは、工場に抗議に出かけた。しかし、工場主は、自然災害だといってまったく取り合わなかった。怒った農民たちは、実力で廃液を止めようとした。すると、その実力行動に対して、反対する者たちが出てきた。彼らは、西側の農民たちで、工場主から買収されていたのだった。その中には、あの娘の父親もいた。東側と西側の農民たちの間の団結は乱れ、互いに対立するようになった。こうした争いの中で、愛し合う二人の仲は、川を隔てて切り裂かれた。娘は、悲しみのあまり、汚れきった死の川へ身を投げて死んだ。

 こういう展開のストーリーだったら、主題はどのようになるのだろうか。もちろんこんな大まかな骨組みだけでは、どれが主要な主題でどれが副次的な主題というような分け方ができるわけではないので、ここではこの骨組みをもとにして作品を書き上げていくつもりで述べることにする。
 これを小説に書き上げていくためには、一定の目安が大切だが、ある程度の素材がすでにそろっているわけだから、どの素材に力点を置くか、あるいは、どのような構成にしていくかが重要である。そのときの指針になるのが(書き手の内なる)主題である。書き手の内なる主題の一例を挙げてみると、@ 若い男女の恋愛は障害の 前にこわれやすい、A 農民の政治意識は低い、B 資本の側は横暴だ、などとでもなるのだろうか。それをピラミッド型に便宜的に組み立ててみると、たとえば、主要な主題が B で、副次的な主題が@、A というふうになる。

 

 すなわち、資本の横暴さと利潤追求のみの姿勢は、美しい自然を破壊するばかりでなく、愛し合う男女の仲を引き裂き死にまで至らしめる。また、この農民たちは、政治的意識が低いために二人を救うこともできず、弱い者同士が対立するように資本の側から操られる、ということになる。
 もちろん、主題のこうした配置の仕方は、創作の途上では、作者の思想や創作のモティーフと大きな関わりをもつものであるから、書き方によっては、@ や A を主要な主題として配置することができる。

(2)主題における思想と理想
  主題は、創作のモティーフ、思想、理想と密接な関係を持っているが、それらがすべて同一というわけではない。(研究者によっては、主題、思想、理想を同一視する場合があるが、ここではその考え方に立たない)主題は、完成した作品の中から客観的にとらえるべきもので、作者の創作の意図やモティーフなどから考えるものでもない。ましてや、研究者や読者の思想とか立場によってまちまちにとらえるものでは決してない。それでは、主題、思想、理想の差異はどの点にあるのだろうか。西郷竹彦は、『教師のための文芸学入門』の中で次のように述べている。

 主題とはいわば作品にえがかれた「現実」です。理想はわたしたちにとっていわば「未来」です。作家は現実をふまえながら虚構によって未来を先取りするといいます。未来 = 理想から現実を見るとき、そこに悲しみや怒りや批判やまた矛盾や期待が生まれてくるのです。現実をふまえ、現実を通して、未来= 理想を展望するときに、作家はそれぞれにちがった思想をそこに表現するのです。主題は「どうであるか」が描かれているとすれば、理想は「どうでありたいか、どうでありたくないか」ということであり、思想は、現実が「なぜそうなのか」また、この理想にむかって、現実を「どうしたらいいか」について答えることであるといえましょう。

 この分類の仕方は、論理的で単純なものなので、主題を正確にとらえるのに、有効な考え方であろう。よって、筆者も、先に挙げた骨組みだけのストーリーをこの方法で分類してみることにする。ただ、主題については、前にふれたので、ここでは思想と思想についてだけ述べることにする。
 このストーリーから考えられる理想は、すべての人間が理解し合い、仲良く手をつなぐことのできる人間関係を作ることであり、美しい自然がいつまでも美しくあるような社会を作ることである。そして、どうしてこのストーリーのような悲劇が起こるのだろうか、また、どうしたらこのような悲劇がなくなるのだろうか、などという問いに答えようとすることが、文学作品にこめられた思想なのである。もう少し思想というものを掘り下げてみると、たとえば、人間は、自分の幸福を追求する場合に、自分ばかりでなく他人の幸福をも同時に考えなくてはならないし、同じ地域に住むという同胞意識や、同じ時代をともに生きるという連帯感を持たなければならない、などという考え方が挙げられよう。また、より具体的に述べるとすれば、農民同士を対立するように仕向けているのは資本の側であるから、農民はその抑圧をはねのけ、真に自らを解放しなければならない、などというのも、類型的ではあるが、作品の思想ということになるだろう。
 以上のように、主題、思想、理想は、分けて考えられるべきものでものであろう。面倒なようだが、こうすることによって、小説の正しい読解ができるようになるし、[はじめに]で述べたように、作者の創造力、ものの見方、考え方、感じ方、あるいは、思想に啓発され、読者は、自分の過去の経験を確かめたり、未知のことを経験したと同じような気持ちになれるし、生きる力や展望が出てくるようになるのである。

【参考文献】
    1 「教師のための文芸学入門」
         西郷竹彦 著     明治図書新書35
    2 「国語教育の基礎理論」
         児童言語研究会 編      一光社
    3 「新・一読総合法入門」
         児童言語研究会 編      一光社
    4 「季刊・国語の授業」第7号
         児童言語研究会 編      一光社
    5 「西尾実国語教育全集」第8巻
         西尾実 著    教育出版
    6 「国語科教育法」
         阪本越郎  編        学文社
    7 「現代文の教え方」
         坂本浩  著         至文堂
    8 「文章読本」
         丸谷才一  著      中央公論社

         「愛知淑徳学園・紀要」1978 より転載


 * 著者の許可なく無断転載することを禁じます。
 

 


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